<コラムもどき>

差別 「善意」からの「悪」(創氏改名)

 広辞林で「差別」を引いてみると、        差をつけて区別すること。ちがい。けじめ。 と載っています。私たちは「差別」という言葉を結構安易に使いますし、確かに身の回りには差別というものが存在するように思われます。  「差別」というとすぐに頭に浮かぶのは、「被差別部落問題」「人種差別」そして最近では教育現場における「いじめ」も一種の差別でしょう。  人間は自分の今置かれている状況に妥協するために、自分より下と思う存在を仮定し、それにより現状を受け入れようとします。そうやって 精神的な安定を求めようとする弱い面を持っているのです。江戸時代の身分制度を見れば解ることで、士農工商の下に非人、穢多が存在する のがそのよい例でしょう。


 かつて日本が植民地支配をしていた朝鮮半島で行った「創氏改名」。井沢元彦氏は「逆説のニッポン歴史観」で教科書問題の一環として 『「創氏改名」は同化≠ナあって差別≠ナはない』との論理を展開しています。この考え方自体は前から一部の右より(この表現が正しい かどうかは別として)の知識人の中では言われていたことですからさほど物珍しくはないのですが、井沢氏の次の論理が私にとっては考えさ せられました。   善意で創氏改名という「悪」をなした。これをしっかり把握しなければ、過ちを繰り返す。 簡単に説明しますと、    差別とは、「差別する側とされる側の区別がつくということ」である。「もし朝鮮人を絶対的に差別したいのならば、創氏改名などしてはな    らない。創氏改名をしてしまえば、まったく区別がつかなくなる」だから、「創氏改名政策は差別ではない」善意で行った政策が必ずしも    相手のためになるとは限らないという例が、創氏改名である。  学校教育で「創氏改名」を「悪意による差別(あるいは弾圧)と教えるそのことが、日本の教育の弊害なのだそうです。
 私は井沢氏の従軍慰安婦等の教科書問題についての考え方を支持してしていますが、今回の「創氏改名」に対する意見は明らかに詭弁 だと思います。  非常に簡単なことなのです。戦争に負けた日本にアメリカが  「今日からアメリカ式に名前を変えなさい。日本語は禁止、米語を使いなさい。」 と命令され、私の名前をベティー スミスなどというのはちょっと困ります。  確かに日本は植民地朝鮮半島に良いことをいくつか行っています。持ち出しの方が多く、欧米列強のような「差別政策」(アパルトヘイトの ような)は行っていませんでした。たとえば植林もしました。学校教育を普及させました。でもそれは日本語教育であり、母国語の朝鮮語を 奪っているのです。その苦痛ははかりしれないものがあります。  当時の日本は、半永久的に朝鮮半島は日本の一部であると思っているのですから、同化政策を行ってもおかしくありません。また、遊牧民族 欧米列強と農耕民族日本との国民性の違いもあったかもしれません。しかし、やはり日本が行った行為は「善意」ではなく、日本のご都合主義 からくる「悪意」と言わざるを得ないのではないでしょうか。ですから井沢氏の「善意による同化政策」なる論理は詭弁にすぎない、と私は思い ます。
 しかし現行の教科書の特に近現代史の記述(またその教え方)には多くの問題を含んでいることも確かです。来年春、「新しい歴史教科書を つくる会」パイロット版『国民の歴史(仮)』が出版予定だそうです。教科書問題に新たな布石を投げかけるのは間違いないと思います。とても 出版が楽しみな私です。

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