<コラムもどき>

オフ会



 インターネットの世界に魅せられて2年ちょっとがたちました。

私にとっては、今までに経験をしたことがなかった新しい世界、それがインターネットでした。

何よりも「自由」であること、それが新鮮でした。

現実の世界ではいろいろなしがらみがありますが、インターネットの世界は(人間としてのモラルを守る ということは言うに及びませんが)それから解き放された無限に広がる大海原であり、自分を理想の姿に演出できる未知の世界のように感じられたものです。

その気持ちは今も変わりません。


 ハンドル・ネームというものが、自分を自由にしてくれたのかもしれません。

「どこの誰だかわからない人と、よくおつき合いするね。」

と、インターネットをしない人たちからはよく言われたものです。

そんな時私は、

「ホームページを見れば、どんな人か見えてくるの。」

といつも答えました。

 私は本当に幸せ者で、今まで一度たりともインターネットで嫌な思いをしたことはありません。

すばらしい友達に恵まれてきたことに、心より感謝しています。


 最近、インターネット犯罪が時々新聞紙上を賑わしています。

 先日起こった「青酸カリ宅配事件」、これは驚きの事件でした。

 「文藝春秋  3月特別号」に中川一徳氏の「ドクター・キリコ戦慄の新証言」が掲載されました。

読まれた方もたくさんいらっしゃることと思います。

 中川氏は

「インターネットは独自のネット社会であると同時に、現実社会の写し鏡である。」

と書いておられますが、確かにそういう面もあるかもしれません。

少なくとも自殺系のホームページは、現実社会で苦しんでいる人々が、本音で苦しみを語り合えた 唯一の場所だったのかもしれません。

   このレポート記事の中で、オフ会についての記述があります。

ある自殺系掲示板参加者のオフ会でのトラブルについて言及してあるのですが、

「こうしたオフ会は、ネット上では顔の見えない匿名だった者同士が、はじめて素顔や場合によっては 実名をさらし合う。関係が親密になるのは利点だが、匿名だからこそ成立してきたコミュニケーションが 成り立たなくなったり、こうした感情的な齟齬を生む恐れもある。」

 この言葉は自殺願望に囚われた人たちのオフ会、という特殊なオフ会に限られたことではなく、 「オフ会」の本質をついている言葉のように私には思えました。

私自身、数回のオフ会に参加したことがありますが、経験された方は皆さん、初対面とは思えない気がする、とおっしゃるように、とても楽しく話も盛り上がります。

そして、実際お会いしたことにより、今まで以上に親密になれたような気がするのは確かです。

 しかしその反面、「匿名だからこそ成立してきたコミュニケーション」は成り立たなくなるため、 限りなく現実に近づき、インターネット上でのコミュニケーションの必要性に疑問を感じるように なりました。

お会いしたことのない、名前すら存じ上げないけれども、ホームページを通じて新しい世界を築いてきたはずの関係が、オフ会でお会いすることにより、現実の世界に限りなく近づいて行くのです。

それとも、そもそもバーチャルの世界での友人関係など、存在しないものなのでしょうか。

皆さんはどのようにお考えになられるのでしょうか。

 「青酸カリ宅配事件」からオフ会の本質についてほんの少し考えさせられた私です。

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