新選組番外編

岡崎・法蔵寺
<近藤勇首塚の由来>

岡崎・法蔵寺

 近藤勇は慶応4年(1868)4月25日板橋の刑場で処刑された。近藤家の菩提所は東京三鷹の竜源
寺であるが、首だけは法源寺に埋葬されている。
 処刑後、近藤の近親者が若干の金子を整えて死骸を貰い受けるために刑場に行き、担ぎ出す人夫を買収
し、一度埋没した近藤の死骸を夜中に掘り出して渡して貰った。しかし首はなく、仕方なく一応埋葬供養
した。それから昭和33年(1958)まで首がどこにあるのか判明しなかった。
 法蔵寺の総本山京都新京極誓願寺の記録に近藤の首が法蔵寺に埋葬されているとの記録があり、昭和
33年(1958)6月、名古屋南山大学の先生で国府町在住の中根慶一氏方にもその文献ががあり、ま
た、岡崎市の松井弘氏方にも文献5点程あることが解った。それで同年7月それらを照合し、初めて詳し
く判明した。
 近藤の首は京都三条河原でさらされたが、それを同士が三晩目に持ち帰り、かつて近藤が在京時代信頼、
敬慕していた称空義天大和尚(新京極裏寺町に在住)に埋葬方を依頼に行った。しかし称空義天大和尚は
半年前に京都より法蔵寺39代貫主として転任していた。法蔵寺は山の中で境内も広大で、松杉檜等の大
木が生い茂り秘密裏に埋葬するのに好適地であった。また法蔵寺は徳川の祖松平親氏の建立で、7代目の
住職は家康の叔父に当たるのため、快諾され埋葬供養された。その当時は石碑の目立つのを恐れ、土砂を
かぶせて普通の無縁仏の様にした。
 昭和33年(1958)秋、供養をしたが、埋没していた石碑の台座と近藤の遺品と思われる品が出土
した。台座には次のように記されている。

   土方歳三、戸村静一郎、小笠原新太郎、内田良太郎、鈴木万之助、佐藤善二郎、鈴木源兵衛、
   菰田幸之助、松下信三郎、市原鐘太郎、太田政一郎
      建立者 内山勝行
      世話人 清水三右エ門、堀川廉之助

 
                    

☆近藤勇刀剣★

 


 法蔵寺の住職がわざわざかんぬきをあけて下さり「近藤勇刀剣」を見せて下さった。
 詳しいことはよく解らないとのことであるが、伊勢湾台風の際、首塚土中から出土したそうである。
ただ、前年埋没していた石碑の台座と近藤の遺品が出土しているのに、なぜ近藤の刀剣がその時発見され
なかったのか疑問が残る。


その他の法蔵寺関係写真
 

写真に触れるとメッセージが出ます。


資料・・・岡崎・法蔵寺より案内書を頂きました。
     法蔵寺   愛知県岡崎市本宿町寺山一番地
           0564(48)2636

           交通・・・名古屋鉄道(名鉄線)新名古屋より急行豊橋行き、本宿駅下車、徒歩5分

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