新選組番外編
高須四兄弟
−尾張徳川慶勝、一橋茂栄、会津松平容保、桑名松平定敬−

向かって右から 尾張徳川慶勝(55歳) 一橋茂栄(48歳) 会津松平容保(44歳) 桑名松平定敬(33歳) 明治11年9月

高須四兄弟というのは美濃高須藩主松平義建の子である尾張徳川慶勝、一橋茂栄、会津松平容保、桑名松平定敬 の兄弟のことである。  激動の幕末維新期をそれぞれの立場で生き抜いていった四兄弟が明治11年9月、慶勝邸に集まり写真を撮った。  御三家にもかかわらず、官軍側についた兄。 「宗家と盛衰存亡を共にすることは、藩祖の遺訓である。」と幕府に殉じた弟。 この写真に写っている彼らの目を見たとき、私はふと思った。 遠くを見つめるような目・・・、立場を異にし、敵、味方となった四兄弟にとって、あの近代日本へ生まれ変わろうとした 幕末の激しい波は、いったい何であったのだろうかと・・・。 ・徳川慶勝(とくがわ よしかつ) 尾張藩主 第一次長州征伐の総督に任命されて広島の本営まで赴きながら一戦も交えず、長州藩の謝罪恭順を受け入れた。 鳥羽・伏見の戦いの折り、藩論を勤王に統一して(青松葉事件)、東海道筋諸藩を新政府につかせるための 誘引に  つとめた。 ・一橋茂栄(ひとつばし もちはる) 一橋前当主であり元将軍徳川慶喜の助命嘆願のために、駿府城まで赴き、大総督有栖川宮に面談した。 ・松平容保(まつだいら かたもり) 京都守護職。新選組を配下におき、尊王攘夷派弾圧の前面に立った。 治安維持ばかりではなく、幕府と朝廷の間を斡旋する外交の役割も担った。 大政奉還には明白に反対を表明、鳥羽・伏見の敗戦後、会津に戻り官軍に抗戦したが敗北した。 明治5年に許された。 ・松平定敬(まつだいら さだあき) 桑名藩主 最後の京都所司代。兄松平容保とともに、幕末の京都警護、朝幕の周旋につとめた。 鳥羽・伏見の敗戦後、柏崎、会津、函館五稜郭と転戦したが降伏。明治5年に許された。                                  写真:別冊歴史読本47号 「将軍・殿様が撮った幕末明治」             新人物往来社

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