「深い河(ディープ・リバー)」
大津はカトリック信者の家に生まれ、カトリックの学校に行く。
自然に基督教というものを受け入れた大津には、信仰に対する心の葛藤はない。
大津が神や基督教に疑いもなくなびいていくのが気に入らない美津子は
大津をもてあそび棄ててしまう。
大津は美津子に棄てられたが、しかしイエスは彼を見捨てなかった。
そして大津は(神は何処にいるのだろう?)という問にたどり着く。
日本人大津は、ヨーロッパの基督教に対峙せざるを得なくなる。
「神は幾つもの顔をもたれ、それぞれの宗教にもかくれておられる。」
「それ(神)は人間の中にあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花をも包む、
あの大きな命です。」
この大津の神に対する考えは、汎神論的な考え方である。
大津が、そして遠藤周作がたどりついた基督教は、汎神論の考え方であり、
それこそが日本の風土にあった基督教であるといえないであろうか。
沼田の場合のように、動物たちが哀しみの理解者、同伴者であるならば、
彼らの中にも神の愛は見いだせるのである。
「神は人間の善き行為だけではなく、我々の罪さえ救いのために活かされます。」
木口の場合、
「塚田は私を助けるために(人間の)肉を食うた。肉を食うのは恐ろしいが、
しかしそれは慈悲の気持ちだったゆえに許される。」
塚田が自分の罪について、長い間苦しみ続けたことでもう充分なのである。
過去を忘れるために酒に溺れていく弱者・塚田。
いったい彼を誰が裁くことができようか。
弱者の苦しみを神は知っているのだ。
塚田に安らぎを与えたガストンは、「悲しみの歌」にも登場する。
戦時中生体実験をし、戦後患者を安楽死させ、自分自身も自殺という大罪を
犯した勝呂医師でさえ、
「ほんとにあの人、今、天国にいますです。天国であの人のなみだ、だれかが
ふいていますです。」
とガストンは言う。ガストン=イエスと考えて良いであろう。
遠藤文学ではガストンはとても重要な役割を果たしていると思う。
「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って深い河に
祈っているこの光景です。」
美津子は果たして誰に向けて真似事の祈りをしているのであろうか。
「玉ねぎなどと限定しない何か大きな永遠のものかもしれない。」
とあるが、美津子の真似事の祈りは、すべてを包み込む大きな命であり、愛であり、
そしてすべてを包み込む神・汎神論的な神に向けてのものと考えられないであろうか。
大津が担架で運ばれていくときに
「本当に馬鹿よ。あんな玉ねぎのために一生をふって。
あなたが玉ねぎの真似をしたからって、この憎しみとエゴイズムしかない世のなかが
変わるはずはないじゃなの。あなたはあっちこっちで追い出され
挙げ句の果て、首を折って、死人の担架で運ばれて、
あなたは結局は無力だったじゃないの。」(下線は筆者)
愚かもの・無力なもの=イエス
美津子は無意識の内に、大津の中にイエスの姿を見いだしたのかもしれない。
しかしその大津の中にヒロイズムを見いだすことはできないだろうか。
(あなたは、背に人々の哀しみを背負い、死の丘までのぼった。
その真似を今やっています。)
大津はガンジス河で見捨てられた人々のために献身的に働いている。
人々の哀しみを背負ったイエスのように。
しかし彼のその献身的な行為の裏側に「自己犠牲の陶酔」が潜んでいないとは
誰が言えようか。
遠藤周作は「青い小さな葡萄」「白い人」など初期の作品の中で基督教文明への
深い不信感を書き表している。
白い人の「英雄主義への憧れ、自己犠牲の陶酔」を鋭くえぐっているのである。
最後の長編「深い河」の重要な登場人物・大津の中に、遠藤周作の出発点である
基督教社会の偽善が皮肉にも見え隠れしていないであろうか。
「深い河」完
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