今回は少し手を抜いてしまったが、「白い人」「おバカさん」「わたしが・棄てた・女」という
3つの作品を、相関図を中心にまとめてみた。
「白い人」 昭和30年(1955)上半期・第33回芥川賞受賞
私は遠藤周作の作品の中でも、好きな作品の一つである。
芥川賞を取る作品によくある難解さがあり、それがかえって心地よさを感じる。
日本人が書いたにも関わらず、登場人物に日本人が出てこないという、珍しい作品である。
私は作者がこの作品の中で、キリスト教文明に対する深い不信感を表している、と思った。
白い人の英雄主義への憧れ、自己犠牲の陶酔、というものを、鋭くえぐっているのでは
ないだろうか。
主人公「私」はマリー・テレーズを陵辱するが、それは彼にとって、すべての処女の純白さ、
無垢の幻影の陵辱であり、その純白さ、無垢の幻影にこそ、英雄主義への憧れ、自己犠牲の陶酔、
そして十字架が隠されているのである。
「おバカさん」
ガストンを主人公にした中間小説(軽小説)なので、とても読みやすい。
笑いあり、涙あり、の楽しめる読み物であるが、読み終わった後、純文学と同様
心に深く残る何かがある。
ガストンは「悲しみの歌」「深い河」にも登場する遠藤文学のおなじみの人物であるが、
彼は最後、必ずどこかに消え去ってしまう。
ガストン=おバカさん=愚かな者=イエスであることは間違いないであろう。
余談だが、このガストンにはモデルがある。ジョルジュ・ネラン神父である。
職業軍人から一転、カトリックの司祭になり、遠藤周作がフランス留学中世話になった人物である。
「わたしが・棄てた・女」
この小説も「おバカさん」同様、中間小説(軽小説)である。
「苦しんでいる者たちを見るのが何時も耐えられなかった」森田ミツは
まさに「愛」そのものなのであろう。
ミツは、遠藤周作がもっとも好きな登場人物だということであるが、
この本のもう一人の主人公・吉岡が語るように、「ミツ=聖女」なのだと思う。
小説の最後で
「ぼくらの人生をたった一度でも横切るものは、そこに消すことのできない
痕跡を残すということなのか。」
と吉岡に独白させているが、まさにこの言葉は、遠藤氏のイエスのイメージそのままである。
そしてこちらが棄てようとしても、イエスは我々を棄てることはないのである。
まさに、「永遠の同伴者・イエス」、「生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬもの」
としてのイエス像が、この小説でも読みとることができる。
遠藤は小説の最後で、修道女にミツを語らせるのだが、私はなぜそのようなことをしたのか疑問である。
修道女に聖女・ミツを語らせなくても、小説を読む者には十分にそのことは理解できる。
かえって結論を押しつけられたような気がして、読み終わった時、心地よい読後感を味わうことができなかった。