遠藤周作
 
学生時代から大好きな作家・遠藤周作の作品を自分なりにまとめてみました。
ここで取り上げる作品以外の遠藤周作の作品、参考文献は、 「読書ノート」 の 参照をお願い致します。
「黄色い人」


 まず登場人物の関係をはっきりさせるために、「黄色い人」の相関図を作ってみた。

 白い人=ブロウ神父に対して、黄色い人は千葉、キミコ、糸子と

その図式ははっきりしている。

黄色い人は

どんよりとした視線、(神と罪に無感覚な眼・死に対する無感動な眼)

「なんまいだ」という罪の無感覚に都合のよい呪文を唱える

人たちである。

姦淫・情欲・冒涜の大罪を犯し教会を追われた元カトリック司祭ドゥランは

黄色い人のように神や罪に無感覚になることができず、

悩み苦しむ。

妻キミコの何気ない一言、

「なぜ、神さまのことや教会のことが忘れられへんの。

 忘れればええやないの。あんたは教会を捨てはったんでしょ。

 ならどうしていつまでもその事ばかり気にかかりますの。

 なんまいだといえばそれで許してくれる仏さまの方がどれだけいいか、

 わからへん。」

という言葉に、神を忘れれば、それから解放されれば、もはや刑罰への

おののきも死への恐怖も全くなくなる、ということに気づく。

しかし本来白い人であるドゥランは、悲しいことに、神を拒みながらも

その存在を拒むことができない。

つまり、「黄色い種族にはなれず、この肌の色だけは変えることができなかった。」

のである。

このことは裏返せば、黄色い人は白い人にはなりえないということである。

そのことは、遠藤周作の初期の作品のテーマとしてしばしば現れる。

たとえば「青い小さな葡萄」では、

「・・・きいろい自分の皮膚が恥ずかしい。日本人であることがイヤでたまらない。

 しかし皮膚の色を変えることも国籍を消すことも出来ない。」

主人公伊原はこうノートに書き綴っている。

つまり、白い人になりたくてもなれない、白い人の考え方や信じている何かを

黄色い人は真に受け止めることはできないのではないか、ということである。

 この小説のテーマは何であろうか。

私は、「汎神論的風土での罪の意識の欠如」ではないかと思う。

遠藤周作はこの小説で、日本の汎神論的土壌を掘り下げたのである。

汎神論的風土の「黄色い人」の世界は、一神論の「白い人」の世界とは

遠く隔たった根本的に異質の存在であり、神と罪に無感覚な世界なのである。

日本人の考え方は、一つのものを最後まで突き詰め、罪とか罰とかを

意識するのではなく、「なむあみだぶつ」と唱えることにより許される、

という曖昧な混沌とした世界なのである。

自らの運命に対峙することなく、流されてしまう日本人、

その運命がたとえ死であっても受け入れてしまう日本人。

この小説の冒頭で、糸子が空襲で死んだかもしれない緊迫した状況の下で

主人公千葉は「彼女が死んでいるとしても、それでいいのだとさえ思えるのです。」

と告白している。

この言葉こそ、黄色い人の本質であろう。

その点で言えば、前回扱った「深い河(ディープ・リバー)」の大津は

「黄色い人」とは違う側面を持っていると思う。

大津は汎神論的基督教という面では白い人とは考えを異にしていることは

明らかであるが、彼はその事を説いて、教会では異端扱いされてしまう。

大津はうまく立ち回れないのではなく、自らの意志で上司の聖職者たちに

異論を唱えているのである。

大津がもしすべてを曖昧にし運命に流されていく「黄色い人」ならば、

聖職者たちにあえて汎神論的基督教を主張するであろうか。

まさに大津はある意味で、自分の運命に挑戦しようとしているのである。

私は大津の中に、「白い人」の本質を見たような気がする。

 私は遠藤周作の作品の中では「黄色い人」はあまり好きではない。

小説としておもしろいとは思えないし、あまりにもどろどろとした

黄色い世界をこれでもか、これでもか、と表面に出すこの作品に、

嫌悪感すら感じるからである。

しかしこの作品のテーマであろう「汎神論的風土」というものは、

遠藤の作品の最後まで重要な意味合いを持っている。

その点で「黄色い人」という作品は、遠藤周作の作品群の中で

見落とすことが出来ない重要な作品の一つだと思う。

「黄色い人」完

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