私の育った家と土地 <3枚(1200字)作品>
地下鉄の駅から歩いて2分ぐらいの便利な場所に、私の生まれ育った家はあった。南山通りの北側、南山動植物園から見ると北西の方向である。敷地内には祖父母が住む和風の本宅と、父母と私と妹が住む洋風の新宅が建っていた。 新宅には、マントルピースのある広い応接間と父の書斎、和室の居間、父母の寝室、天窓のあるダイニングキッチンと家事室、そして写真が趣味であった父の現像室があった。 応接間の壁側中央にマントルピースがあり、そこから少し離れた左横には私を長年苦しめたピアノが置いてある。私は3歳の頃からピアノを習い始めた。多少ピアノが弾ける母は、小学校の中学年頃まで時々私の練習を見ていた。若かった母は、私が上手く弾くことができないと必ず怒って手を挙げた。私はしゃくりをあげて泣きながらピアノを弾き続ける。母の怒りを静めるためには、ただ謝るしか術はなかった。この部屋にはステレオプレイヤーもあった。これで聴いた、ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』は忘れられない一曲である。昭和43(1968)年、この曲は280万枚の大ヒットとなり、レコードは品切れ状態のためなかなか手に入らなかった。それを父がどこからか入手してきて、私たちに聴かせてくれたのだ。 おらはしんじまっただ〜 おらはしんじまっただ〜 早回しテープを使った異様な歌声、奇々怪々な歌詞、当時中学生の私にはこの曲の良さなど全く分からなかった。しかしこの時聴いたレコードが、青春時代の愛唱歌・フォークソングとの最初の出会いとなったのである。 小さい頃、現像室にもよく入った。この部屋に入ると薬剤の鼻につんとくる酸っぱい臭いがする。現像室には流しが二つ並んでいて、その上に赤い暗室用電球がぶら下がっていた。父は紙をピンセットでつまみ、流しに満たした薬剤に入れる。すると徐々に写真が浮かび上がってくる。この現像室は何年ほど使われていたのだろうか、いつしか物置に変わっていた。 父母の寝室の前には、緑の芝生が敷き詰められた洋風の庭があった。庭の周りには白い柵があり、赤や黄色の四季バラが咲いている。庭の端の方に枝振りの立派な柿の木があり、2年に一度、小さいが甘い実を沢山付けた。この柿の木は幹も枝も太く、しかも地面に近いところで枝分かれをしており、木登りには格好の形をしていた。地面から1.8mぐらいの高さまでしか上れなかったが、小学生の私にはターザンになりきるのに十分な高さであった。 「すぐに部屋に入りなさい」 母の叫ぶような声がした。なんと、庭の白い柵に大きな蛇が巻き付いているではないか。2m近くありそうなオリーブ色の大きな蛇である。蛇はしばらくじっとして動かなかったが、そのうちどこかへ行ってしまった。この蛇は家の主だから殺してはいけないのだと、後から祖母が教えてくれた。 |
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