20th Anniversary Spring Tour

続・ひとりぼっちのバレンタイン

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恒例のSpring Tourの原点
冬の底である1月に夕景のきれいな春めいた日があると旅立ちたくなる。ある土曜日の午後、休日返上の仕事を終えて自宅に帰る道すがら、夕日に照らされた田んぼ道を走っていると急に「Spring Tour」に出掛けたくなった。
1987年春に鳥取〜岡山〜高知を縦断したいわゆる「西のサイドライン」ツアー(詳細はこちらを参照)から年中行事のようにSpring Tourに出掛けているのであるが、精神的に最悪の時期には中止したり規模を縮小せざるをえなかった。それゆえ、今年も旅の計画を立てて実行に移すことができるのは、それ自体が喜びなのである。

夜の京都駅で発車を待つEF66

2号車はB寝台個室の「ソロ」

南国行きの寝台列車に乗れる喜び
Spring Tourが年中行事になる前には「冬の大垣ツアー」と題して何回か大垣へ雪見に出掛けていた。第1回はちょうど20年前の1983年2月で(詳細はこちらを参照)、思えばこれが現在に繋がるSpring Tourの原点といえる。その大垣ツアーとSpring Tourをひとつの旅の中で実現している唯一の旅が1989年2月の大学の卒業旅行で(詳細はこちらを参照)、今回の旅はその卒業旅行で印象に残った宮崎の都井岬と鹿児島の長崎鼻を主な目的地としている。
卒業旅行で忘れられない光景は、かつて新婚旅行のメッカであった開聞山麓でバスを待つ間に見上げた南国の太陽。それがたまたま2月14日のバレンタインであったため、一人旅の自分にとって余計にインパクトがあったんだと思う。今回の旅の日程もバレンタインを挟んでいる。あの時の光景が再現できたらいいなと思っている。


個室であることをいいことに酔っ払いモード
「彗星」ソロで酔っ払いモード
2003年のSpring Tourは京都発の寝台特急「彗星」で始まる。2月13日は仕事が立て込んでいて京都を20時20分に出る「彗星」に間に合うかどうかヒヤヒヤした。それでもなんとか仕事の都合をつけて、予定通り浜松18時15分発のこだまに飛び乗った。18分の待ち合わせの京都でチューハイやらつまみやらを買い込んで、いよいよ「彗星」のB寝台個室ソロに乗り込む。前述の卒業旅行の時に初めて寝台特急なるものに乗ったのであるが、その頃は単なる開放式B寝台でさえすごい贅沢なものに感じた。それから14年、今ではずいぶんスレてしまい「あけぼの」のA個室寝台といい、今回のB個室寝台といい、「個室でなければ寝台列車に乗らないゾ」的な勢いになってきた。まぁ今回の個室は開放式B寝台と料金は変わらないので、予約をとったもん勝ちなのであるが…。でも寝台特急に乗り込む時の昂揚感は今も昔もさほど変わらない。「南宮崎」という表示に心が躍る。
個室寝台ということで、オーディオサービスが付いている。最初はドナ・サマー等のダンス・ミュージックを聴いていたのだが、一周してまた最初に戻ってしまうと聴くものが無くなってしまい、手持ちのヘッドホンステレオにスイッチ。テープは1985年の受験ツアー用に作った「THE PASSENGER」(曲目参照)を選択した。このテープは、私の第1期70年代ブームの時に作っているので「カリフォルニアの青い空」やら「アローン・アゲイン」やら「追憶のテーマ」やら、コテコテの70年代の名曲が揃っている。私は遠い受験生時代に思いをはせながら徐々に酔っ払っていくのであった…
このテープの佳境は「青い影」である。スティーリー・ダンの「ヘイ・ナインティーン」、スクエアの「トラベラーズ」から続くこの曲はサミー・ヘイガーのヴォーカルとニール・ショーンのギターが絶妙である。もともとはプロコルハルムの曲で、カバーしたアーティストも数多いが、その中でも一番の出来だと私は思う。特に叙情的なニール・ショーンのギターが哀愁を誘い、夜行列車にぴったりハマる。そんなことを想いながらバーボンをちびちび飲り、いい加減に酔っ払ったなというところで眠りに就いた。列車は岡山を発車したところだった。
夢うつつの中で、未明の関門トンネルと門司の長時間停車の記憶はあるのだが、目覚めたのは別府到着前の朝イチの放送からだった。大分で車内販売が乗り込んで、とりあえず飢える心配はなくなったが、購入した駅弁は飲みすぎのためか食欲がわかず、食べたのはずっと後になってからだった。


終点南宮崎に到着。天気は快晴

眠っている間に機関車は交替していた

「宮崎市といえば大淀川」伸びやかな景色が広がる市民のオアシスである
バレンタイン・ラプソディ
私は旅先に必ずラジオを持って行く。臼杵、津久見、佐伯あたりでは地元のFM「AIR RADIO」が車内でもよくとれた。今日はバレンタインということで、話題はそのことばかり。例えば、小学生の母親からの手紙で「自分の息子がひとつもチョコをもらえなくて落ち込んでいるが、どう対処したらいいんでしょう?」などと、どうでもいい話題を取り上げていた。笑ったのは小学3年生の娘を持つ母親の「うちの娘は毎年チョコを渡す男の子が違い、持ち上がりで3年間同じクラスなのだが、3年間かけてクラスの男の子のほとんどに渡してしまった。この子は世界制覇の野望があるのでしょうか。末恐ろしい…」という手紙だった。なんともはや…
結局始発から終着まで、ひとつの列車を乗り通して、充実感とともに南宮崎駅に降り立った。昨夜から食べ過ぎで体が重く感じたので、宮崎駅へ一駅歩いて戻ることにした。2月半ばとはいえ、南国の風はやさしく散歩するにはちょうどいい。南宮崎〜宮崎間は時刻表によると2.6`の距離だが、その中間で大淀川という大きな川を渡る。宮崎市内の大きなホテルは、ほとんどこの川畔に建っているので、「宮崎市といえば大淀川」というイメージを持っている方も多いだろう。かくいう私もその一人で、鉄道写真の名撮影ポイントである大淀川橋梁でデジカメを構えた。放送局は宮崎の「JOY FM」に変わったが、相変わらずラジオではバレンタインの話題一色。その合間の交通情報に耳を傾けると「首都高速3号線は…」などといっている。なぁ〜んだ、東京のネット番組だったのか…


大淀川を渡る「よくある」鉄道写真
都井岬
宮崎駅前商店街の、「昼食のメニューは日替わりランチだけ」という居酒屋みたいな店で昼飯を食べ、再び体が重くなる。宮崎駅は1・2番ホームと3・4番ホームが別々の改札になっており、乗り換えるためには一旦改札を出て別の改札から入らねばならないという面倒な構造である。そのためか、改札を入る時に駅員さんから「どちらまで」と聞かれたのだが、心の準備ができていない私はドキっとした。「え〜と、え〜と、クシモトまで」「…。あぁ串間までね。日南線の」「あ、そうそう串間まで」串本っていえば紀伊半島の南端ではないか!!私としたことが…。実は私は宮崎県内フリーパスの周遊キップを持っていたため、まさか「どちらまで?」という質問をされるとは思っていなかったのだ。

都井岬の玄関である串間に到着
串間までは快速「日南マリーン号」に乗車。快速といっても終点の志布志までの29駅中6駅しか通過しない列車なのだが、ローカル線の日南線では一日一往復の「優等列車」なのである。満腹状態で私は早くもヒルネ体制。巨人軍やエスパルスがキャンプを張っている宮崎総合運動公園も、風光明媚な青島海岸「鬼の洗濯板」も夢の中。目覚めると宮崎市から50`も南に進んでいた。
所要2時間3分で串間に到着。都井岬はまだまだ遠く、20`以上バスに揺られなければならない。車中のお供として、テープは「On The Road Version」と副題のついた「 Spring Tour Attendants W」(曲目参照)をセレクトした。このテープをアメリカ大陸で聴いた時には、度々出てくる「ハイウェイ」という歌詞にノリノリになったが、今回は曲がりくねった山道。「Roll On Down Highway」と唄うバックマン・ターナー・オーナー・ドライブではドラムが走り過ぎてカーブから谷底に転げ落ちそうだ。やっぱりビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」の方がお似合いのようで…

都井岬にて筆者

ある日、森の中ウマさんに出会った

都井岬ビジターセンターは初訪問

360度の画面が広がるサークルビジョン
40分あまりバスに揺られて、ようやく都井岬に到着した。既に馬止めの柵を越えており、いつ野生馬に遭遇してもおかしくないのだが、ウマもいなければ、観光客もいない無人の草原が広がっている。とりあえず前回訪問した時には無かった「都井岬ビジターセンター」に行ってみようと森の中を歩き始めた。すると「森のクマさん」の歌ではないが、ビジターセンターの方から一頭のウマが蹄の音も高らかに歩いてきた。あまりの突然の出来事にバタバタしながらデジカメを取り出し激写したが、ウマは「何か用?」的な雰囲気で悠然と私の隣を歩いていった。さすがに都井岬の野生馬、貫禄たっぷりである。
ビジターセンターは17時が閉館ということで、ご自慢のサークルビジョンシアターの放映は本日の最終回ということだった。私は20分あまりの上映を貸し切り状態で楽しんだ。
都井岬の野生馬三題・・・太平洋をバックに(左)、都井岬灯台をバックに(中)、変なオジサンが乱入(右)するも日々の暮らしを続ける

串間駅に向かうバスは17時10分に都井岬を発車する。ビジターセンターを出た私は、バスが出るまでの20分をウマと過ごそうと思い、展望台からウマの群れを見つけ出した。急いで現場に急行し、さまざまな表情を見せる野生馬をデジカメに収めた。やがてウマをただ写すだけでは飽き足らなくなり、なんとかセルフタイマーで自分とウマのツーショットを撮りたいと思い始めた。しかし、そこは野生のウマ。なかなか自分が思うようには動いてくれず、結局右上の中途半端な画像がベストショットとなった。
バスの時間が近づき群れを後にしたが、夕闇せまる都井岬でウマと戯れることができ有意義な時間だった。この場所に次にいつ来られるだろうかと思うと少し寂しくなった。後日、私のHPの掲示板に大学の同級生であるつっちぃが「午年の宿命」と書き込んでいたが、まさにそんな思いであった。

鹿児島への長い道程
帰りのバスの運転手さんに話し掛けられ、「これから宮崎回りで鹿児島まで行って泊まる」と言ったら驚きとも呆れともつかない声で「それは大変ですねぇ〜」と言われた。無理もない。普通の観光客なら17時に都井岬にいれば、そのままここに泊まるか少なくとも宮崎県内に宿泊するだろう。そこを無理を通して鹿児島に宿泊し、投宿予定時間が23時過ぎなのだから…

夕陽を浴びて、黙々と草を食む都井岬の野生馬

まだ夜が明けぬ西鹿児島駅

小雨が降る無人駅で小休止
18時01分発の宮崎行き普通列車には、昨日同様に大量のつまみと酒を持ち込んだ。高校生の帰宅列車なのだが、キハ31という気動車の一人がけの転換シートに座ったから、周りの目を気にせずに酒盛りができる。幸い立ち客もいないから好都合である。ものの1時間くらいの間に酔っ払ってしまい、強烈に眠気が襲ってきた。往路に夢の中であった青島付近は、復路も結局夢の中だった。串間から2時間10分かけて再び宮崎駅に降り立った。
宮崎から西鹿児島への電車も各駅停車である。ホントは周遊キップを持っているから、特急列車の自由席は乗り放題なのだが、既にこの時間には鹿児島方面に向かう特急列車はない。2時間半も電車に揺られて、23時ちょうどに西鹿児島に到着した。さすがに辟易とした。

雨の長崎鼻パーキングガーデン
鹿児島の宿泊は、西鹿児島駅近くの「ステーションホテルニューカゴシマ」。ネット予約で税込み4725円のエコノミーな宿である。しかし、前日の23時15分頃チェックインし今朝は6時半過ぎのチェックアウトで、ほぼ寝るだけだったから、夜露をしのげればどこでも同じである。昨日は1日中晴れていたが、天気予報どおり今日は朝から雨となった。さすがに九州の夜明けは遅く、浜松ではとっくに明るい時間なのにまだ暗く、行き交うクルマはヘッドライトを煌々と照らしている。
5分ほど歩いて駅に到着。時間に余裕があったので、いったん車内に荷物を置いて、少し離れた喫煙所で悠々と一服していた。発車時間が近づき車内に戻ろうとすると、ドアが閉まっている。「ははぁ〜、寒いからドアを1箇所だけ開けて、他のドアは閉めているんだな」と思い、開いているドアを探すが全てのドアが閉まっている。「手動のドアじゃないはずだけど…」と思いつつ編成を見回すと、4両編成のうち私が荷物を置いた2両が切り離されており、今まさに回送列車として車庫に向かおうとしていることにようやく気付いた。慌てて車掌さんを呼び止め、ドアを開けてもらい荷物を救出した。本当の山川行き列車に私が乗り込むのを待っていたようにドアが閉まり発車。ずいぶんと肝を冷やした。昔にもこんな経験をした覚えがあるが、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」。やっぱり荷物に座席の番人をさせるのは邪道だと痛感した。

昔は右の碑が「日本最南端の駅」だった

夢の中にも出てくる長崎鼻への下り坂


日本でも珍しいフラミンゴのショー


開聞岳を背景にフラミンゴたちが水浴び


思えば遠くに来たもんだ…。開聞岳を背に筆者
指宿枕崎線のディーゼルカーは、各駅に丹念に停まりながら山川を目指す。薩摩今和泉という無人駅では対向列車の待ち合わせのため長時間停車し、いい喫煙タイムとなった。快速なら1時間ちょっとで結ぶ西鹿児島から50`の距離を、1時間34分かけて山川に到着した。
山川駅の入口脇に「日本最南端の有人駅」の碑が建っている。以前は「日本最南端の駅」という文字が刻まれていたが、ご存知のとおり最南端の駅は2つ先の西大山。「看板に偽りあり」と批判が相次いだが、当局は「無人駅は駅でなく停留所だから…」と苦しい言い訳をしていたように記憶する。さすがにこれでは通じず「最南端の有人駅」と書き換えたようである。前回訪れた時は気付かなかったから最近のことだろう。
山川駅からバスに乗り、長崎鼻を目指す。前回1996年に訪れた時と同様、車内には南日本放送のラジオが流れていた。その時に偶然流れたミスチルの「名もなき詩」を聴きながら、長崎鼻パーキングガーデンへの下り坂を降りていったのを鮮明に覚えている。その時はプチ鬱状態であったから、なおさら心に刻み込まれたと思うのだが、とにかく今でもその光景が夢に出てくるほどである。駅から20分足らずで長崎鼻に到着。96年当時とは運行形態が変わり、バスは下り坂を降りて直接パーキングガーデンに乗り入れなくなっていた。

上の画像と同じ場所で長崎鼻を背に
長崎鼻パーキングガーデンのような施設は、天候に恵まれないとイマイチぱっとしない。開聞岳や長崎鼻は望めたが、晴れていれば屋久島やら口永良部やらが望めたはずである。また、フラミンゴやオランウータンなどの動物ショーは屋外のステージで行われるため、傘を差しながらの見物は辛いものがある。観光バスが何台も来ていて、フラミンゴのショーはそれなりに観客がいて盛り上がったが、その団体客が引き上げた後のオランウータンのショーに至っては、開演時の観客は私ともう一人のお父さんの二人だけである。そのお父さんも盛り上がらないショーに堪えられなくなったのか途中で退席し、ついに私一人が取り残されてしまった。こうなると面白かろうがつまらなかろうが、私は最後まで付き合わざるを得ず、むなしい拍手が響いた。当初の予定では12時過ぎまで長崎鼻に滞在するはずが、10時25分のバスで引き上げることにした。


最後は貸し切り状態でサービスを受ける

左手奥の中継所の脇に空港バスが到着

力走する選手たちと次々にすれ違う
宴の最後
山川駅に戻って一駅だけ列車に乗り指宿に着いた。空港行きのバスの時間を確認しようと駅前に出ると何やら騒々しい。パトカーが何台も止まり、警察官も警備に当たっている。何事かと思いそっと地元の人に尋ねると、今日は鹿児島県下一周駅伝があって、ここが中継所だという。通過予定時刻は11時24分で、それなら空港行きバスの発車1分前。たすきリレーも見られるかもしれず、天候のため暗くなりがちだった心が偶然の僥倖でパッと明るくなったような気がした。中継所はバス停の向い側なのだが、予定時刻が近づくとバス停にも続々と見物人が詰め掛け、押すな押すなの大盛況である。
そうこうするうちに、予定時刻が若干ずれ、バスが先に入ってきてしまった。私は後ろ髪を引かれる思いでバスに乗ったが、その後次々と選手たちがすれ違う。私は、バスの車窓から駅伝を観戦するというシチュエーションは長い人生の中で一度あるかどうかじゃなかろうかと考え直し、あらためて選手たちの力走に声援を送った。宴の最後を飾るに相応しいイベントであった。
<おしまい>

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