30 Years Ago Now And Then
2011

    
1981年1月17日付
第10位 Do Do Do, De Da Da Da - The Police
中学校2年生の冬、最も印象的だった曲が今回紹介するポリスの「ドゥ・ドゥ・ドゥ・デ・ダ・ダ・ダ」です。訳の分からないタイトルもさることながら、「洋楽は外国人が英語で歌っている曲」という概念もぶっ飛ばしてくれたからです。スティングのしゃがれ声で「ドゥ・ドゥ・ドゥ・デ・ダー・ダー・ダーは愛の言葉さ」なんてサビを歌われたら、洋楽好きの中学生はメロメロでございます。しかもサビだけ日本語というケチくさいことは言わず、全編にわたって日本語なんですから中学生のハートはキャッチされてしまいますわなぁ。
前年の「孤独のメッセージ」で私はポリスを知ったわけですが、その時の印象は「暗闇で孤高に歌う人たち」というちょっと暗めな感じでした。で次にヒットした「高校教師」でその印象をさらに強めていたら、こんなコミック・ソングみたいなモノが出てきたわけですからぶったまげました。もちろん曲は上質で、ギター、ベース、ドラムの最小編成ながら、「なんでそんなに厚みがあるの?」というポリスならではの良さは、この曲でも再現されています。ちなみにビルボードHOT100の最高位は、この週と翌週の2週連続の10位(もちろん英語バージョン)。日本語バージョンは長らくCD化されないレア音源でしたが、1997年にめでたくCD化されました。
.
1981年2月7日付
第14位 Miss Sun - Boz Scaggs
私が中学生のころはFMラジオフリークで、エアチェックを通して洋楽好きに育った感があります。その頃、平日の22時台は「ライブ・フロム・ザ・ボトムライン」という番組が組まれていて、そのエンディングテーマは、当時ヒットしていた洋楽ヒットのメドレー(というよりは適当に曲を切り貼りしたもの)でした。ブルース・スプリングスティーンの「ハングリー・ハート」から始まるメドレーの中盤に「ヘイ・ミス・サン…」と軽快なサビ部分が入る曲があり、妙に気になっていました。当時は演者も曲名も分からなかった曲が、高校生になってからボズ・スキャッグスにハマり、ベスト盤に新曲として収録された「ミス・サン」だということが分かりスッキリした覚えがあります。
時代が下って、2008年3月27日の名古屋センチュリーホール。TOTOとのジョイントコンサートで来日したボズ・スキャッグスのライヴの中で最も印象的だったのが「ミス・サン」。もともとジャジーな曲調を、よりジャズの方向に振って、恰幅の良い黒人女性とのデュエットを、昔と変わらぬ張りのあるボーカルで再現していました。また、演奏しているメンバーがTOTOということで、最高の演奏技術を腹八分目に抑え、演奏の隙間を聴かせるような上質なパフォーマンスで、ボズのボーカルに応えていました。この歳になってくるとそれなりに耳が肥えてきていますが、そんな私にも大満足の一曲でした。
というわけで、第一印象から現在に至るまで私の心を離さなかったボズ・スキャッグスの「ミス・サン」をつらつらと書き綴りましたが、チャートアクションの方は1981年2月7日と14日に記録した全米14位が最高位。ちなみにこの週の第1位は、クール&ザ・ギャングの「セレブレーション」、2位はブロンディの「夢見るナンバーワン(The Tide Is High)」でした。「ミス・サン」と比べると隔世の感があります。
.
1981年3月21日付
第1位 Keep On Loving You - REO Speedwagon
REOスピードワゴンといえば、ジャーニー、TOTOと並んで私が中学生の頃にお気に入りだったロックバンドの御三家なのですが、他の2つのバンドと比べ世に出るまでに(すなわち自分が知ることになるまで)膨大な時間を費やしています。バンドの結成は「サマー・オブ・ラブ」で知られる1967年。メジャーデビューは1971年。いずれにしても全米第1位のアルバム・シングルを放つまでに20年の年月がかかっています。バンドの中心は、ソングライターでボーカル、ギターを務めるケヴィン・クローニン。売れる前は1年で300回に及ぶライブツアーをこなすなど、文字通り苦労人のバンドマンでした。そして1980年12月に11枚目のアルバム「Hi Infidelity(禁じられた夜)」をリリースすると、今まで貯め込んでいたパワーを解き放すような大ヒット。ジョン・レノンの遺作である「ダブル・ファンタジー」に代わって、全米アルバムチャート1位となり15週連続で首位を守りました。この快挙は日本の一般紙にも記事になるほどでした。
その「禁じられた夜」からのファーストシングルが「キープ・オン・ラヴィング・ユー」でした。簡単なピアノのコードバッキングで始まるこの曲は、ケヴィン・クローニンの甘く爽やかなボーカルが印象的なラヴ・ソングで、この曲もついに1981年3月21日付ビルボードHOT100で首位を獲得してしまいました。その当時の私は、妹の練習用ピアノでこの曲のイントロをコピーし、それがきっかけで高校時代にはピアノで自作の曲を作るようになりました。TOTOやジャーニーに比べれば、バンドのメンバーに超絶なテクニックがあるわけでもなく、卓越したハイトーンボイスを持つボーカリストがいるわけでもないので、本当に普通のどこにでも居るようなロックバンドなのですが、ライブ活動を通じてファンを獲得し、力をつけていった姿に勇気づけられます。
.
1981年4月11日付
第1位 Kiss On My List - Daryl Hall & John Oates
中学生になって洋楽の扉を開けた私は、中学校生活の最後の年に一気に花を開かせた感じがします。アメリカには「ビルボード」というヒットチャートを毎週集計している雑誌があることを知ったのもこの頃ですし(その頃にはオリコンの存在も知らなかったのです!)、FM情報誌の存在を知りNHK−FMやFM愛知(当時はK-MIXが開局していなかった!)をエアチェックし、自分でカセットテープを編集し始めたのもこの頃でした。そんな1981年の思い出の曲は数多くありますが、最も好きな曲のひとつが今月紹介するホール&オーツの「キッス・オン・マイ・リスト」です。
リズムマシン(おそらくローランドの八百屋?)からピアノのコードバッキングにつながるイントロ部分が特に気に入っていて、今でもこの曲のイントロを聞くとアドレナリンが放出されるのを感じます。その後アコースティックピアノを使ったロックが大好物になるのですが、その先鞭をつけたのがこの曲だったのかもしれません。この曲はコード進行も独特で、ポップロックなのにマイナーコードが効果的に使われているところも、加藤少年の心をつかんだ理由のひとつだと思います。
1981年4月11日付ビルボードHOT100で、先週まで1位だったブロンディの「ラプチュアー」からトップを奪取し、その後3週連続第1位。5月に入ってシーナ・イーストンの「モーニング・トレイン(9to5)」に首位を明け渡しました。ちょうどこの頃のチャート上位には、ジョン・レノンの「ウーマン」やスティックスの「ザ・ベスト・オブ・タイムズ」という名曲が入っており、正直今月どの曲を紹介するか迷いましたが、革新的な曲であることを鑑みて「キッス・オン・マイ・リスト」を紹介しました。
.
1981年5月2日付
第2位 Just The Two Of Us - Grover Washington Jr.
昔々資生堂「ブラバス」という男性用化粧品のCMに、渡辺貞夫さんの曲が使われていたことがありました。それどころか草刈正雄さんと一緒にCMにまで出演していました。70年代の終わりから80年代の初めにかけてお茶の間に流れた「カリフォルニア・シャワー」、「モーニング・アイランド」、「オレンジエクスプレス」などの曲によって、一気にジャズ・フュージョンが市民権を得ました。そんな時代にスムース・ジャズの大御所グローヴァー・ワシントンJrが満を持して発表したアルバムが「ワインライト」でした。
タイトル曲「ワインライト」は、グローヴァー・ワシントンJrのサックスはもとより、リチャード・ティーのフェンダー・ローズがその時代の音を醸し出しており(渡辺貞夫さんの当時の音もこんな感じでした)、「あぁいいなぁ」と今でも思ってしまいます。さて、「Just The Two Of Us」について触れねばならないのですが、邦題は「クリスタルの恋人たち」。これは当時ベストセラーとなっていた田中康夫氏の「なんとなくクリスタル」という小説からパクってきたもので、当時の音楽評論家も「なにしとんねん!」と酷評されたタイトルでした。まぁ「クリスタル」という言葉を使うことで、当時最先端のオシャレな雰囲気を感じさせ、この曲の洗練されたイメージを植え付ける意図があったものだと思いますが…。また、この曲は粘っぽいヴォーカルが耳に残るのですが、アルバム中唯一ヴォーカル入りの曲であり、歌ったビル・ウィーザースの半生の中で最もヒットした曲でもあります。
この曲は、1981年5月2日付ビルボードHOT100で最高位2位に上昇し、そのまま3週連続で2位を守りました。当時の1位はシーナ・イーストンの「モーニング・トレイン」とキム・カーンズの「ベティ・デービスの瞳」。特に後者は1981年の年間チャートで1位を記録した大ヒット曲であり、そんな中でジャズ・フュージョン・セグメントであるこの曲が3週間2位を維持したのは驚異的な記録だと思います。
.
1981年6月20日付
第1位 Medley:Intro Venus/Sugar Sugar/No Reply/I'll Be Back/Drive My Car/Do You Want To Know A Secret/We Can Work It Out/I Should Have Known Better/Nowhere Man/You're Going To Lose That Girl/Stars On 45 - Stars On 45
私がビートルズの曲を初めて聞いたのは小学校低学年のころ。「ひらけ!ポンキッキ」で使用されていた「プリーズ・プリーズ・ミー」をビートルズの曲と知らずに「カモン!カモン!」と歌っていました。その他クラリネットが印象的な「ホエン・アイム・シックスティフォー」もよく覚えています。で、時代が下って中学生となり、洋楽に目覚めたわけですが、ジョン・レノンの暗殺と並んでビートルズに目覚めるきっかけとなったのが今回紹介する「ショッキング・ビートルズ45」です。
平成も20年以上続いた日本では「AKB48」が全盛となっていますが、この曲の演者である「スターズ・オン45」の「45」は、メンバーが45人いるわけではなく、シングル・レコード(ドーナツ盤)の回転数に由来しています。この曲のロングバージョンである「ショッキング・ビートルズ33」は12インチシングルでリリースされ、なんと29曲のメドレーで15分30秒に及ぶ長い曲でした。当時のLP盤は33回転だったので「33」となったものだと思います。
この曲の聴きどころとしては、単なる切り貼りしただけのメドレーでないところでしょう。ビートルズのメンバーに声質が似たボーリストが切れ目なく歌い、しかもコード進行的にぴったりはまる部分をつないでいるため、聞いていて違和感が全くないところが素晴らしいと思います。私的には「33」の「マイ・スイート・ロード」のイントロ部分から「ヒア・カムズ・ザ・サン」〜「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」〜「タックス・マン」とジョージ・ハリスンの曲が4連発で来るところが一番のお気に入りです。
チャート・アクションとしては、キム・カーンズの「ベティ・デイビスの瞳」が5週連続で1位を記録していたのを引きずり降ろして、1981年6月20日付ビルボードHOT100で1位となりました。次の週は、またキム・カーンズに差し返されて、結局「ベティ・デイビスの瞳」は、翌週から4週間トップを守りました。来月はその「ベティ・デービスの瞳」について紹介します。
.
1981年7月4日付
第1位 Bette Davis Eyes - Kim Carnes
この曲を聴くとその頃のことを思い出すということは誰にもあると思います。私の場合は特に夏に多いのですが、今回紹介する「ベティ・デイビスの瞳」は1981年夏を象徴する曲だと思います。先月少し書きましたが、この曲は1981年5月16日付ビルボードHOT100で1位を獲得すると、その後7月18日付チャートまで1週を除いて1位をキープしました。当時アメリカより1ヶ月ほど遅れて日本のFM局がヒット曲を流していましたので、1981年の夏には頻繁に「ベティ・デイビスの瞳」がラジオから流れていたということになります。
2011年の現在では、ベティ・デイビスもキム・カーンズも人々の記憶から消え去ってしまった感がありますが、ベティ・デイビスは往年のアメリカ映画を飾る大女優でした。1935年と1938年にアカデミー主演女優賞に輝き、1938年からは5年連続でアカデミー賞にノミネートされるという金字塔を建てました。ちなみに2004年のカリフォルニア旅行の時に、ハリウッドのウォーク・オブ・フェイムに「ベティ・デイビス」の名前を見つけ感動したという思い出があります。
キム・カーンズについては、独特のハスキーボイスを武器に60年代から主にフォーク畑〜カントリー畑で活動していましたが、1981年にアルバム「私の中のドラマ」で当時流行のニューウェイブを取り入れたところ大ヒット。1981年の夏を席巻することになりました。結局、彼女にとって「ベティ・デイビス」を超えるヒットにそれ以降恵まれず、キム・カーンズといえば「ベティ・デイビスの瞳」ということになってしまいました。いずれにせよ9週間トップを取ったという記録は、1977年の「恋するデビー」(でびー・ブーン)、1981年〜82年の「フィジカル」(オリビア・ニュートンジョン)の10週連続に続く大記録であり、たとえ一発屋的なヒットであっても色褪せるものではありません…。
.
1981年8月1日付
第1位 Jessie's Girl - Rick Springfield
1981年は、ジャーニー、TOTO、REOスピードワゴンといったバンドを通じて、私がロックに傾注していった原点ともいえる年です。これらの音楽は「産業ロック」というあまり嬉しくないレッテルを貼られたりしていますが、この頃のロックは解りやすいので、中学生だった私にスッと入ったのだと思います。
さて、今から思えば「産業ロック」の固まりのような曲が、今回紹介するリック・スプリングフィールドの「ジェシーズ・ガール」です。特徴をひとことで言えば、「売れセンのものならなんでもやる」という姿勢でしょう。とにかく、おもちゃ箱をひっくり返したかのようにキャッチーなパートが詰まっている感じです。イントロに続く出だし部分は、ささやくようなボーカルで始まりますが、サビの手前で大爆発。サビの部分でバックに聞こえるギター・リフは、その後の間奏部分でど派手に演じられるのですが、リフ前のブリッジ部分とリフ後のギター・ソロ部分が上手いことつながっていて、間奏部分は次から次へと転調していきます。コーダ部分まで快調にすっ飛ばし、それでいて曲の長さはお手ごろな3分14秒。昔はこんな曲を書きたいなぁと思ったものでした。
この曲は1981年8月1日付ビルボードHOT100で1位に輝き、翌週まで2週連続でトップを守りました。リック・スプリングフィールドは、この曲のヒットと、この曲を収録しているアルバム「ワーキング・クラス・ドッグ」を評価され、翌年のグラミー賞で最優秀男性ロックボーカル賞を受賞しました。この曲を聴くと、アルバムジャケットに鎮座するYシャツにネクタイ姿のワンちゃんを、パブロフの犬のように思い出します。
.
1981年9月26日付
第6位 Who's Crying Now - Journey
1981年にリリースされたアルバムの中でベストだと自分で思っているのがジャーニーの「エスケイプ」。このアルバムのジャケットを最初に見たときは、演者とタイトルの文字が解読できませんでした。結局右に90度回転させて縦に読むと「JOURNEY」と読めることを発見。「E5C4P3」はリートというやつで「ESCAPE」と読むのだと知りました。そのアルバム「エスケイプ」からの1st.シングルカットが今回紹介する「クライング・ナウ」で、ビルボードHOT100で最高位4位(1981年10月3日、10日の2週連続)を記録し、アルバムのセールス(全米1位を記録)を引っ張りました。
イントロから曲の前半部はジョナサン・ケインのピアノと控えめなスティーヴ・ペリーのヴォーカルで静かに始まるのですが、中盤はスティーヴ・ペリーヴォーカルを聴かせるミディアムテンポのロック。そして、曲の終盤は1分30秒にわたるニール・ショーンのギター・ソロ。当時の私は口ギターで1音たりとも間違えずにコピーし、この曲の持つプログレ・ハードの雰囲気に浸りました。プログレといえば、同じアルバムに収録されている「マザー、ファーザー」も完全にプログレで、ジャーニーが産業ロックだと貶められていた当時に「こんな曲もある」と反論していました。
まぁとにかく好きなアルバムとして必ず名前が挙がるような1枚ですので、これから3か月ごとに収録曲を紹介していく予定です。ちょっとやりすぎかもしれませんが、その辺はご容赦ください。
.
1981年10月17日付
第1位 Arthur's Theme - Christopher Cross
原題は「アーサーズ・テーマ」という味も素っ気もない映画テーマ曲名ですが、日本では「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」という素敵な曲名(!?)で知られています。全盛期は70年代に迎えたバート・バカラック、後の彼の奥様キャロル・ベイヤー・セイガー、彼女のシンガー・ソング・ライター仲間でこの曲の前にも共作があるピーター・アレン、そして演者であるクリストファー・クロスの豪華カルテットで作った80年代を代表する名曲です。ピアノのイントロ、クリストファー・クロスのヴォーカルもいいのですが、私のお気に入りの部分は間奏のサックス。ここが一番秋を感じさせます。
この曲のリリースの時には、既にリアルタイムで洋楽を聴いており、おそらく出会いはラジオだと思います。映画「ミスター・アーサー」のテーマ曲なのに、その映画が流行った記憶がなく、「映画の方は駄作なのかな?」と思いきや、最近BSで観たら割としっかりした映画でした。まぁ日本では圧倒的に映画よりも楽曲がヒットした稀有な例でしょう。ちなみに本国ではグラミー賞ではなく、アカデミー賞の最優秀楽曲賞を獲っていますので、映画もかなり評価されているんだと思います。また、ハリウッドでは今年になってリメイク版も封切られ、話題になっているようです。
この曲は1981年10月17日付ビルボードHOT100で1位を獲得し、その週も含めて3週連続でトップを守りました。この頃のチャートは映画絡みの曲が多く、10月17日付チャートの2位はダイアナ・ロス&ライオネス・リッチーのデュエット「エンドレス・ラヴ」、4位はシーナ・イーストンの「ユア・アイズ・オンリー」と上位5曲のうち3曲までが映画のテーマソングでした。ちなみに3位はローリング・ストーンズの「スタート・ミー・アップ」。この曲も彼らのライヴでは必ずセットリストに載る御馴染みの曲です。
.
1981年11月7日付
第17位 Say Goodbye To Hollywood - Billy Joel
ビリー・ジョエルといえば日本でも1・2位を争うファンの多いシンガー・ソングライターですが、そのディスコ・フラフィーの中でもマイナー中のマイナーなライヴ盤が「ソングズ・イン・ジ・アティック」です。1977年のアルバム「ストレンジャー」に収録されている「素顔のままで」が、翌年度のグラミー賞でソング・オブ・ジ・イヤーとレコード・オブ・ジ・イヤーに輝き、次作である1979年のアルバム「ニューヨーク52番街」は、同年度のアルバム・オブ・ジ・イヤーに選ばれ、グラミーの主要4部門のうち3部門を2年がかりで受賞するという快挙を成し遂げました。次のアルバム「グラスハウス」からシングルカットされた「ロックンロールが最高さ」は、自身初の全米1ヒットとなり、この頃のビリー・ジョエルは飛ぶ鳥を落とす快進撃でした。で、次がライヴ・アルバムの「ソングズ・イン・ジ・アティック」。普通に考えれば彼のここまでの代表曲を満載したベスト・アルバム的なものを想像するでしょう。でも違った。タイトル通り「屋根裏部屋」に眠っていた曲ばかりを集めたライブ盤でした。福山雅治が今度「ノー・シングル・ライヴ」を企画していますが、それを30年前にアルバムという形で成立させた画期的かつ企画倒れの恐れのあるアルバムでした。結局、全米8位までアルバムチャートを駆け上り、アメリカだけで300万枚も売れたというライヴアルバムとしては異例の大ヒットとなりました。単純比較はできませんが、有名な曲ばかりを集めた1987年のソ連でのライヴ盤や、2000年のミレニアムコンサートのアルバムのセールスは全く「ソングズ・イン・ジ・アティック」に及ばなかったことから、このアルバムの秀逸さが分かります。
さて、そのアルバムからリード・トラック的にシングル・カットされたのが今回紹介する「さよならハリウッド」です。おなじみのドラムのイントロからスタートしますが、スネアの響き具合がハンパなく「あぁ、アリーナでやっているんだな…」と実感します。コーダの部分ではビリー・ジョエルが観客に「サンキュー」とひと吠えして終わり、観客がそれで盛り上がり、素晴らしい臨場感となっています。アルバムの1曲目「マイアミ2017」のイントロのピアノの響きや、「キャプテン・ジャック」の観衆の湧き具合などもアリーナ・コンサートならではでしょう。一方で食器の音がイントロで聞こえる「ロサンゼルス紀行」や、観客の手拍子から始まる「僕の故郷」では小さなステージらしい観客との一体感があり、これはこれで感動します。
澄み渡った青空の下、カーステレオで聴くのもよし、ハイキングしながらヘッドホンで聴くのもよし、とにかく秋はライブ盤がお似合いの季節。おすすめの一曲&ライヴ・アルバムです。
.
1981年12月19日付
第9位 Don't Stop Believin' - Journey
9月の「クライング・ナウ」に続いて、ジャーニーの1981年リリースの名盤「エスケイプ」からのシングル・カット曲の紹介です。「愛に狂って」という邦題が付けられた「ドント・ストップ・ビリーヴィン」は、アルバムの1曲目にして、当時このアルバムのリード・トラック的な役割を持っていました。それゆえ「エスケイプ」アルバムからまず連想される曲は、このアルバムの最大のヒット曲(全米2位)「オープン・アームズ(邦題:翼をひろげて)」でも、最初のシングルカット曲「クライン・ナウ」でも、タイトル曲「エスケイプ」でもなく、この曲を挙げたいと思います。スティーブ・ペリー、ニール・ショーン、ジョナサン・ケインの共作となっていますが、イントロのピアノの感じ、ギターソロの少なさ、また全編にわたって繰り返される印象的なギター・リフの感じからいって、おそらくキーボードのジョナサン・ケインがイニシアチブを握って作った曲かと思われます。
この曲での私のお気に入り部分は、Aメロ、Bメロが終わって例のギターリフの間奏に入るわけですが、その間奏の途中からボーカルが入るところ。普通、8小節を1ブロックとして曲が構成されるのですが、5小節目でボーカルが入り、その前の4小節のコードを繰り返しているため途中からボーカルが入ったように聞こえるわけです。私はこの手法にいたく感激し、学生時代に作った曲でこれをパクって、間奏部分の最初で1小節だけフィルイン的に繰り返したものがあります。また、この曲の歌詞の冒頭部分で「夜汽車で旅に出る」というフレーズがありますが、この歌詞に感銘を受けた学生時代の私は、卒業旅行に持って行ったカセットテープのB面1曲目にこの曲を収録し、今はなき寝台特急「富士」のベッドで膝を抱えながら聴きました。そのため、この曲を聴くと春の旅の思い出を連想してしまいます。
さて、1981年12月のビルボードHot100チャートは、今でも語り草になっているオリビア・ニュートンジョンの「フィジカル」とフォリナーの「ガール・ライク・ユー」が長きにわたって席巻していた時期にあたります。詳しいことは来年1月のこのコーナーで書こうと思いますが、そんなとんでもない強力な曲が上位を占めていたチャートの中で、ひとケタ順位までチャートを上ったのですから、この曲の健闘が光ります。

2012年版へ
2010年版へ
目次へ