30 Years Ago Now And Then
2010

    
1980年1月26日付
第40位 Last Train To London - Electric Light Orchestra
80年代の初っ端を飾る曲はエレクトリック・ライト・オーケストラの「ロンドン行き最終列車」です。当然1979年のリリースで、アルバム「ディスカバリー」からの4曲目のシングルカット曲です。当時の私は鉄道趣味にはまっており、邦題に惹かれてこの曲を好きになり、ELOの存在を知るに至ったわけです。当時は全く気付かなかったのですが、今になって改めて聴いてみると、ベースラインがロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」に似ていて、紛れもないディスコ・チューンであることを「発見」しました。アルバムタイトルも「Disco」+「Very」ということで、このコーナーで再三記述しているように当時のディスコ・ブームは凄まじく、ELOもディスコ音楽に本格的にチャレンジしたようです。
イギリス本国では、シングルチャート8位まで上昇しましたが(コンフュージョンとのダブルA面)、ビルボードHOT100では1980年2月2日付で最高位39位を記録したに過ぎません。しかし日本では、この私が知っているくらいなのですからポピュラーチャートの上位を賑わしており、なおかつ私の中ではちゃんと21世紀まで生き残った曲でした。
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1980年2月23日付
第73位 I Don't Like Mondays - Boomtown Rats
今回取り上げるブームタウン・ラッツの「哀愁のマンデイ」は、1979年の7月に英国シングルチャートで4週連続1に輝いた大ヒット曲です。でも遅れてリリースされたアメリカでは、お世辞にもヒットしたとはいえず1980年2月23日付ビルボードHOT100で最高位73位。100位以内にチャートインしたのもわずか5週間というものでした。現在と違い、当時はこんな現象も当たり前で、英米のチャートが独自色を持っていた頃でした。
ブームタウン・ラッツの中心メンバーといえばボブ・ゲルドフ。彼はバンド・エイドを結成したことでも有名であり、その後ライヴ・エイドも仕掛けています。たまたま私の大学受験のとき、英語の長文読解に彼のチャリティー活動を題材にしたものが出題されました。得意分野なので「ラッキー」と思いながらスラスラと読み解き、まんまと志望校合格を勝ち取っていますので、この「哀愁のマンデイ」で彼の名前を知り得なければ、その後の私の人生も変わっていたかもしれません。
さて、この「哀愁のマンデイ」は、1979年にサンディエゴで起きた16歳の少女による銃乱射事件にちなんでボブ・ゲルドフが作った曲です。なんでもその少女が事件を起こした理由を問われた時に発した言葉が、「月曜日はキライなの」だそうで、メロディアスで壮大なピアノのイントロと似ても似つかない内容だったんですね。当時ピアノによるロックにはまっていた私にとっては、そのイントロこそがツボだったのですが…。ま、とにかくロック史に残る名曲であることは確かでしょう。。。
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1980年3月15日付
第26位 99 - Toto
TOTOの2枚目のアルバム「ハイドラ」は1979年リリースですので、当然アナログ盤で発表されたのですが、デジタルマスタリングを施されているため非常に音質がクリアで、今聴いても全く色あせていません。そのアルバムからの2ndシングルが今回紹介する「99」ですが、当時の私はAMラジオの洋楽チャート番組でこの曲を聴いていたため高音質の恩恵を全く受けていませんでした。それでもこの曲が忘れられないのは、作曲者デヴィッド・ペイチによる美しいピアノのイントロが印象的だったからでしょう。
デヴィッド・ペイチはアルバム「ハイドラ」の全9曲の作曲にかかわり、ハード・ロックからジャズ・テイストの曲まで生み出しています。LAでも指折りのスタジオ・ミュージシャンとしての引き出しが多さが表われています。TOTOの最高傑作といえば、世間的にはグラミー賞でアルバム・オブ・ザ・イヤーを獲った「TOTO W(聖なる剣)」なのでしょうが、私自身は「ハイドラ」を推したくなります。「プログレハード」の名曲「St.ジョージ&ザ・ドラゴン」や、ピアノをフィーチャーしたハード・ロック「ホワイト・シスター」など、今回紹介した「99」と並び称される曲が数多く収録されているためなのですが。。。
さてこの曲も、アルバムも、チャートアクション的には芳しいものではなく、「99」の最高位は今回紹介した週の26位、アルバム「ハイドラ」も37位が最高位でした。普通のアメリカ人がTOTOの存在を知るのは、それから2年後、4枚目のアルバムが出てからです。ただし、当時の日本では、「99」も洋楽チャートでベスト5入りしていた覚えがあります。
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1980年4月26日付
第2位 Ride Like The Wind - Christopher Cross
1980年の前半は、私の人生の中で何回かあった「洋楽を聞きまくっていた時期」のひとつで、このコーナーで取り上げる曲の全てが大切にしたい曲ばかりです。特に今回取り上げるクリストファー・クロスについては、翌年のグラミー賞で主要4部門、すなわち「最優秀レコード賞」「最優秀アルバム賞」「最優秀楽曲賞」「最優秀新人賞」を独占した人で、ある意味1980年の音楽シーンを代表するシンガーです。アルバム「南から来た男」は、フラミンゴのジャケットが印象的な反面、アーティストの姿かたちが全く載っていなかったため「この覆面歌手は誰?」ということで話題になりました(そのぶん後年になって、彼の容姿にガックリした人をかなり発生させたわけですが…)。
さて、彼のデビュー・シングル「風立ちぬ」を語りたいわけですが、シングルとしては次の「セイリング」が、前述のグラミー賞「最優秀レコード賞」「最優秀楽曲賞」を受賞していることもあり、「風立ちぬ」はちょいとかすんだ感じです。しかし私から言わせれば「軟弱な」セイリングより、骨太でビートが効いているこっちの方が何倍もお気に入りです。たまにFMラジオか何かで、この曲を耳にすると、ピアノのコードバッキングとパーカッションのアンサンブルが非常にカッコよく聞こえ、リリース当時は気付かなかっただけに非常に新鮮な感覚があります。
チャートアクションの方は、同時期にブロンディの「コール・ミー」という強力な曲が存在していたため(こちらは6週連続bP)、ビルボードHOT100で1980年4月26日から4週連続で最高位第2位を記録したにとどまりました。しかしながら新人としては破格のヒットであり、次のセイリングで全米1位を記録する足がかりを築くには十分なものでした。
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1980年5月3日付
第7位 You May Be Right - Billy Joel
1980年上半期を代表する曲といえば、ビリー・ジョエルの「ガラスのニューヨーク」において他にはないと思っています。確かに全米チャートでは今回取り上げた1980年5月3日付の7位が最高ですが、私の中ではエポックメイキングな曲でした。ビリー・ジョエルが、ガラスの建物に向かってまさに石を投げようとしているジャケットが印象的なアルバム「グラス・ハウス」。そのアルバムの1曲目にガラスが割れて「ガラスのニューヨーク」が始まります。ギターのリフのイントロから「フライデーナイト…」とビリー・ジョエルが歌い出すくだりは、まさにロック。当時中学2年生だった加藤少年は、金槌で殴られたくらいの衝撃を受けたものです。世間一般には、アルバム「ニューヨーク52番街」までのビリー・ジョエルは「素顔のままで」や「オネスティ」といったラブ・バラードのイメージが強く、このロック・アルバムに従来のファンは賛否両論。それでも私のような新しいファン層を獲得したのか、「グラス・ハウス」は6週連続で全米1を獲得。セカンド・シングルである「ロックン・ロールが最高さ」は自身初のシングル全米1位を記録しました。
私はこの「ガラスのニューヨーク」とアルバム「グラス・ハウス」をいたく気に入り、当時のわずかなこづかいを貯めてアルバムを購入。初めて買ったレコードになりました。と同時に「ニューヨーク52番街」以前の作品にも遡って興味を持ち、人生初の洋楽アーチストのファンになりました。その後の歴史は、このホームページでもいろいろなところで記述していますが、名古屋ドームのライブで涙ぐむほどに至ったわけです。さて、この曲は私が歌詞カードを見ずに歌える数少ない洋楽の曲の一つなのですが、「君が笑うまで下品な冗談を続けた」という歌詞のくだりは、43歳になった今でも「こうやって生きてみたい」という願望になっています。
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1980年6月7日付
第19位 Lost In Love - Air Supply
ガラスのニューヨークがヒットしていた頃、ガラスのニューヨーク以上にヒットしていたのが今回紹介するエア・サプライの「ロスト・イン・ラブ」です。オーストラリアでキャリアを積んで、満を持して全米デビューした「ロスト・イン・ラブ」が大ヒット。1980年5月3日付のビルボードHOT100で3位になると、その後4週連続でその位置を守りました。ラッセル・ヒッチコックのハイトーンボーカルが印象的なのですが、最初に聞いた時には女性が歌っているのかと勘違いしました。どこを切り取っても爽やかなサウンドで、それを称して「ペパーミント・サウンド」と呼ばれていました。
彼らはこの後、全米1位を含む大ヒット曲を数年にわたって連発していくわけですが、いずれもポップなメロディラインを持った曲で、ある意味曲作りに長けていたため人々に受け入れられたのだと思います。さて、この時期はオーストラリア出身のグループが全米を席巻しており、ビージーズを始めとして、リトル・リバー・バンド、メン・アット・ワーク、INXSなどが全米チャートの上位にランクインしていました。そういえばフィジカルをヒットさせたオリヴィア・ニュートンジョンもオーストラリア出身でした。どのアーティストも、地球の底から都会で一旗揚げようと目論んで全米進出をしたんでしょうね…
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1980年7月19日付
第1位 It's Still Rock And Roll To Me - Billy Joel
私の中ではビリー・ジョエルのベストアルバムといえば「グラス・ハウス」。全編にわたってロック色の強いアルバムですが、その中でも最もシンプルなロックンロールを聴かせてくれるのが今回紹介する「ロックンロールが最高さ」です。実のところ、この曲に関してはリアルタイムでヒットしていた頃を知りません。というのも1980年の夏から秋にかけて洋楽から邦楽に興味の中心が移っていたからなのですが、その理由は前年秋にSBSラジオで開始した「ポピュラー・ベストテン」がナイター編成のために深夜の放送になってしまったからです。それでも「ガラスのニューヨーク」がヒットした頃は眠いのを我慢して聞いていたのですが、部活がオンシーズンに差しかかるとともにそうもいかなくなり、当時高視聴率を誇っていた「ザ・ベストテン」にシフトしていったわけです。
閑話休題。とにかく最初に買ったアルバムが「グラス・ハウス」なのですから当然この曲も大好きなのですが、特に印象的なのはこの曲で初めて歌詞が韻を踏んでいることに気付いたことです。「honey」と「money」、「sentimental」と「continenntal」等、全く関係のない語彙をなんとか強引に結び付けて歌詞にしてしまうところに「すごいなぁ」と感じたものです。この体験が、少なからず今の文章作りにつながっているわけで、そういう意味では私にとって大切な曲だと思います。
ビリー・ジョエル自身にとっては、この曲で初めてシングル全米1位に輝き、その後「あの娘にアタック」、「ハートにファイア」でも全米1位を獲得し1980年代を代表するポップシンガーになるわけです。
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1980年8月23日付
第17位 Jojo - Boz Scaggs
私がAORと聞いて連想するアーティストは、ボズ・スキャッグスとボビー・コールドウェルが双璧なのですが、今月はボズ・スキャッグスの「ジョジョ」を紹介します。1980年といえばAOR全盛期なのですが、その年にリリースされたアルバム「ミドル・マン」は私の中学生から高校生時代に随分と聴きこみました。そのアルバムのA面1曲目が「ジョジョ」で、レコードの針を落とした瞬間から始まるドラムスとカッティングギターによるハイファイ・サウンドに魅了されました。当時大ファンだったTOTOのメンバーがバックバンドとして参加し、ドラムスはジェフ・ポーカロ、ギターはスティーブ・ルカサーなので、イントロから聴きごたえがあるのは当然でしょう。
さて、このアルバムの中で当時の自分のお気に入りは、「ジョジョ」「ブレイクダウン・デッド・アヘッド」「トワイライト・ハイウェイ」「ミドル・マン」といったどちらかといえば分かりやすい曲でした。特に「ブレイクダウン・デッド・アヘッド」や「ミドル・マン」はロック色が濃く、ロック少年だった私は魅せられたものです。現在では、「シモン」のような複雑なコード進行の曲で、ボズのボーカルが渋い曲が気に入っています。このアルバムに収録されているヴァージョンもいいのですが、アルバム「フェイド・イントゥ・ライト」に収録されたアンプラグド・ヴァージョンが秀逸でオススメです。
ボズ・スキャッグスにとって、1980年はシングルチャート20位以内にランクインする曲を4曲もリリースした輝かしい1年で、ビルボードHOT100の5月17日付チャートで「ブレイクダウン・デッド・アヘッド」が最高位15位を記録し、続いて「ジョジョ」が8月23日付で最高位17位。さらには10月25日付チャートで「燃えつきて」が最高位14位、そして私がボズの曲の中で最も好きな「ミス・サン」が11月にリリースされ、1981年2月7日付チャートで最高位14位を記録しています。
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1980年9月13日付
第4位 Fame - Irene Cara
中学生の頃の自分は、映画音楽が苦手でした。というのもイージー・リスニングみたいな眠い曲ばかりで、若い心をちっとも揺り動かさなかったからです。そんな当時に映画「フェーム」は封切られ、主演のアイリーン・キャラは主題歌も歌いました。それが、今回紹介する「フェーム」です。1980年代は、「フラッシュ・ダンス」「フットルース」というバリバリのダンス映画が流行り、その主題歌は劇中で効果的に使われ、当然のように大ヒットしました。その嚆矢となったのは、この曲であると思います。
ニューヨークの芸能専門学校での青春模様。そして街に繰り出して、通りがかりの人を交えて大勢でこの曲をバックに踊りまくるシーンは圧巻でした。キャッチーなシンセサイザーによるイントロ。盛り上がりのあるサビ。70年代のディスコ・ミュージックから80年代後半のユーロビートに続くダンス・ミュージックの流れをよく表現していると思います。
この週のビルボードHOT100は、1位がドナ・サマー「アップサイド・ダウン」。2位はエア・サプライの「オール・アウト・ラヴ」。また7位にはジョージ・ベンソンの「ギヴ・ミー・ザ・ナイト」。そして9位にはクィーンの「地獄に道連れ」ということで、ディスコ、ポップスからブリティッシュ・ロック、フュージョンまで多様な曲がチャートインしていました。現在のチャートに比べると隔世の感があります。
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1980年10月18日付
第8位 Xanadu - Olivia Newton-John/Electric Light Orchestra
先月に続いて今月も映画音楽を紹介します。今回はオリビア・ニュートンジョンとELOの異色コラボレーションである「ザナドゥ」を取り上げました。70年代後半から80年代前半にかけて、オリビア・ニュートンジョンもELOもヒット曲連発という状態でした。不朽の名作「そよ風の誘惑」(1975年)やTOTOのメンバーがバックを務め、10週連続全米1位という金字塔を打ち立てた「フィジカル」など、オリビア・ニュートンジョンの絶頂期といえる時期に、ジェフ・リン率いるELOが「ちょっとうちのバンドで歌ってみない?」と誘ってみたという構図なのでしょうか(かなり適当!?)。ELOの方も「オーロラの救世主」「アウト・オブ・ザブルー」「ディスカバリー」と大ヒットアルバム連発でしたので、いわば「夢の競演」ということになります。
映画の方は、「さびれたショッピングセンターを、音楽の殿堂にしましょう」みたいなテーマで、最後は「ディスコみたいなところでみんなで踊る」的なミュージカル映画でした(こちらも相当適当…)。オリビア・ニュートンジョンといえば、ジョン・トラボルタとの共演のディスコ映画「グリース」で、女優としても第一人者に立っていた時期ですので、2匹目のドジョウを狙ったこの映画も大ヒットすると思いきや、全く当たらず映画史からは早々に消えた作品となっています。しかし不思議なもので、映画で使われた音楽は大ヒットし、「ザナドゥ」は全米8位となり、後にソフトバンクのCMでも使われ、21世紀まで残った楽曲となりました。また、この映画の挿入歌として使われたオリビア・ニュートンジョンの「マジック」に至っては、1980年8月2日付ビルボードHOT100で1位となり、その後4週連続で首位をキープしました。クリストファー・クロスの「ニューヨークシティ・セレナーデ」(映画ミスター・アーサーのテーマ曲)と双璧をなす、「映画は×だが、音楽は○」現象を地で行く「ザナドゥ」でした。
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1980年11月8日付
第20位 On The Road Again - Willie Nelson
偶然にも3カ月連続で映画音楽を紹介してしまうのですが、今回は「忍冬の花のように(ハニーサックル・ローズ)」という世間的には知られていない映画の挿入歌です。この映画を見たことがないのでどうこう言えないのですが、主演はカントリーミュージックの大御所ウイリー・ネルソンさんで、ドサ回りをするカントリー歌手の物語だそうです。で、「オン・ザ・ロード・アゲイン」という曲が生まれるわけなのですが、歌詞を見るといかにもアメリカ人が好みそうな曲だというのが分かります。「旅」「仲間」「ハイウェイ」というアメリカ人好みの歌詞がちりばめられているお気楽な曲で、アメリカン・ハイウェイのドライブに昔から憧れのある私もこの曲が大のお気に入りです。
私がこの曲と出会ったのは、リリースからかなり経った80年代の後半ですが、実際にこの曲を聴きながらアメリカのインターステートをドライブした時は、長年の夢が叶った思いでした。今でも恒例の春のツアーには必ず持って行く曲のひとつです。ちなみに私が外国のアーティストでさん付けで呼ぶのは、このウイリー・ネルソンさんだけ。1981年のアメリカン・ミュージック・アワードで、何部門にもノミネートされ「オン・ザ・ロード・アゲイン」が流れるものの結局1つも賞が獲れず、ウイリー・ネルソンさん自身も会場に姿を現さずという映像を見た時に、逆に惚れこんでしまったわけです。最後にチャートアクションについて触れると、「オン・ザ・ロード・アゲイン」は、ビルボード・カントリーチャートでは堂々の1位を獲得し、HOT100でも11月8日付と翌週の15日付で最高位20位にランクされています。
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1980年12月27日付
第1位 Starting Over - John Lennon
1980年12月8日、日本時間では9日、世界中に衝撃が走りました。ジョン・レノンがニューヨーク・セントラルパーク脇のダコタ・ハウス前で、熱狂的なファンであるマーク・チャップマンの凶弾に倒れたのです。直後に駆け付けた警察官の手で病院に運ばれましたが、大量の出血のため、その日のうちに亡くなりました。当時中学2年生だった私は、ビートルズの存在はなんとか知ってはいたものの、そのメンバーが誰であるかを知りませんでした。この事件の報に直面して初めてビートルズは、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人組だということを知ったわけです。
ジョン・レノンは70年代半ばに音楽活動を休止し、この年になって久々のアルバム「ダブル・ファンタジー」を発表しました。アルバムから最初にシングル・カットされた曲が、今回紹介する「スターティング・オーバー」でした。冒頭のベルの音がなぜか悲しげに聞こえ、ジョン・レノン自身の死を予測しているように当時は感じましたが、曲の内容は再出発をしようという前向きなものだということを、かなり後になってから知りました。まぁとにかく現在でも12月の声を聞くと、楽しげなクリスマス・ソングとともに、強く連想する曲の一つです。
今年はジョン・レノン生誕70周年、そして亡くなってから30年の区切りの年。命日には家の明かりを消して、キャンドルに火を灯して、静かにジョン・レノンの冥福を祈りたいと思います。

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