30 Years Ago Now And Then
2012

    
1982年1月9日付
第1位 Physical - Olivia Newton-John
1982年は私の半生の中で最も洋楽を聴いた年で、毎月思い出深い曲を紹介していきたいと思います。スタートの1月はビルボード史上に残るトップ争いが続いていた1月9日付チャートを紹介したいと思います。年末年始の休暇でチャートが発表されない週(フローズン・チャートと呼ばれています)を挟んで、何週間もチャート上位に変動が無かった1981年暮れから1982年の年明け。当時はクリスマスにレコードをプレゼントする風習がありましたので、年間で最もレコード売り上げが多い時期でもありました。11月21日付チャートからトップを守っていたのが、オリビア・ニュートン・ジョンの「フィジカル」。私としてはスティーブ・ルカサーのギター・ソロがカッコいいなぁと思う程度で、当時はイヤになるほどFMで流されていたため飽き飽きしていました。ヒットの要因は清純派だったオリビア・ニュートン・ジョンが突如としてお色気路線に走り、プロモーション・ビデオのシャワーシーンに目を奪われたオッサン達がレコード店に走ったからだと思いますが、真相はどうでしょうか?
第2位は11月28日付チャートからずっとフォリナーの「ガール・ライク・ユー」。強力な1位の曲に阻まれて「史上最強の2位」と呼ばれています。当時の私としては「フィジカル」よりも何倍も自分のフィーリングに合っており、いつかフィジカルを蹴落としてトップに立つものと思っていました。雪がしんしんと降るようなイントロで始まるラブ・バラード。ルー・グラムのハイトーン・ヴォーカルと同じキーで歌えたことが、当時の私の誇りでした(今じゃ絶対ムリだけど…)。次いで3位は、12月19日付チャートでポリスの「マジック」(これもピアノのフレーズがカッコよくて私好み)に代わってチャートを上がり、年を越しても赤丸急上昇マークが付いたまま3位に甘んじていたアース、ウィンド&ファイアの「レッツ・グルーヴ」。EW&Fのディスコ・チューンといえば、今でもこの曲か「ヴギ・ワンダーランド」かと言われるほどの名曲。お得意のホーン・セクションがめちゃくちゃカッコいい曲でした。
結局「フィジカル」と「ガール・ライク・ユー」のワン・ツーは1月23日付チャートまで8週間も続き、3位に「レッツ・グルーヴ」を加えたワン・ツー・スリーも、その前の週まで4週間続きました。当時の私は洋楽のカウント・ダウン番組を死ぬほど聴いていましたので、普段音楽を聴いていても「レッツ・グルーヴ」の次は「ガール・ライク・ユー」が来ないと納まりが悪く、「ガール・ライク・ユー」がフェード・アウトすると「フィジカル」のスネア・ドラムのイントロが来ないと「何か変」だと思っていました。今では「フィジカル」の良さも分かるようになり、この前NHKのテレビ番組でアコースティックの「フィジカル」を聴いた時には鳥肌が立つほど素晴らしいと思いました。上位3曲が3曲とも個性があり、自分が素晴らしいと思えるようなビルボード・チャートが何週間も続くようなことは今後も無いでしょう。
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1982年2月13日付
第3位 Haren My Heart - Quarterflash
1982年の2月と言えば、私が高校受験のことで頭がいっぱいの時期でした。当時の全米1位だったJ・ガイルズ・バンドの「堕ちた天使」の「堕ちた」という語感を極端に嫌い、この曲のタイトルを言うときには原題の「センター・フォールド」を使っていました。そんな訳のわからないゲンかつぎをしていたころ、今回紹介する「ミスティ・ハート」も流行していました。当時のロック・バンドには紅一点のボーカルというスタイルが流行っていて、有名なところで言うとブロンディのデボラ・ハリー、プリテンダーズのクリッシー・ハインドが挙げられます。クォーター・フラッシュのリンディ・ロスにも彼女たちと同様な期待を持っていましたが、残念ながら最大のヒットはデビュー曲である「ミスティ・ハート」となってしまいました。
サキソフォンを肩から下げて、イントロでサックスを吹き、メイン・ボーカルとしてセンターで歌い、間奏ではまたサックスを吹く彼女をビデオ・クリップで観て正直「カッコいい」と思いました。そういえば、「堕ちた天使」の方もイントロで管楽器が入りますので、同じころには似たようなスタイルが流行るというトレンドは今も変わってないなと思います。ちなみに邦題の「ミスティ・ハート」で「ミスティ」という言葉を初めて知った私は、その後自分で作った曲のひとつに「ミスティ・タウン」と名付け、その結果自分のホームページのタイトルにも「ミスティ・タウン」を使っていますので、当時のMCAビクターの担当者に感謝しないといけないですね。
ビルボードHOT100におけるこの曲の最上位は、1982年2月13日付と翌週2月20日付の第3位。そのころの1位は前述のJ・ガイルズ・バンドの「堕ちた天使」で、2位はホール&オーツの「アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット」でした。ホール&オーツの方はリズムマシーン(たぶんローランドのやおや)が印象的でしたが、やっぱり間奏にサックスが入っていましたね…
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1982年3月6日付
第2位 Open Arms - Journey
このコーナーでジャーニーのアルバム「エスケイプ」のシングルカット曲は3度目の登場です。今では曲名は「オープン・アームズ」と原題で呼ばれていますが、リリース当時は「翼をひろげて」という邦題がついていました。当時のジャーニーのアルバム・ジャケットは翼が付いた甲虫が描かれているものが多く、おそらくそこから連想したんでしょうね。さて、この曲は「エスケイプ」アルバムの最後を飾るスロー・バラードですが、この曲を語るのに欠かせない曲がアルバムで直前に収録されている「マザー・ファザー」の存在でしょう。「マザー・ファザー」はディストーションの効いたギターをフィーチャーしたハードロックで、かなりドラマティックな展開を見せることから、いわゆる「プログレ・ハード」にカテコライズされる曲だと思います。間奏部分のニール・ショーンのソロ・ギターの速弾きは、その後サミー・ヘイガーと演った「青い影」の名演につながり、彼のギター・ソロの中ではお気に入りランク上位に入っています。
さて、「マザー・ファザー」の厳しくもドラマチックなエンディングの後に、「翼をひろげて」のイントロが始まります。やさしいピアノの音色にホッと一息付くわけですが、この感じが厳しい冬を越えてようやく春の息吹を感じるというこの頃の気候に重なります。ラジオでオンエアされる場合は当然「翼をひろげて」のみ流れますので、ひとつアルバムを通してお聴きになることをオススメします。よりこのバラードがやさしく聞こえることでしょう…
「翼をひろげて」は1982年3月6日付ビルボードHOT100で第2位に上昇し、その後4月6日付まで2位を続けるも、とうとうトップには立てませんでした。当時、1位を阻止したのはジョーン・ジェッツ&ブラックハーツの「アイ・ラブ・ロックンロール」。シャウトするだけの単純な曲で、当時の私は大嫌いな曲でしたが、それからずいぶんと経ってからカラオケで歌ってみると気持ちのいいこと。ビルボード・チャートはラジオの放送回数が大きなウエイトを占めていますが、カーラジオから流れるこの曲に合わせて歌い、気持ちよくてまたリクエストする人が多かったんじゃないかと思っています。
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1982年4月10日付
第5位 Make A Move On Me - Olivia Newton-John
ヒットしていた当時はどうってことのなかった曲が、後になって聴いてみるといい曲だと思うようなことがたまにあります。今回紹介するオリビア・ニュートンジョンの「ムーヴ・オン・ミー」もそんな曲のひとつです。アルバム「フィジカル(虹色の扉)」からのセカンド・シングルとしてリリースされ、爆発的なヒットを記録した「フィジカル」同様お色気路線を突っ走っていますが、フィジカルよりはアダルトなムードがあります。この曲の少し前にヒットした曲にドナ・サマーの「ワンダラー」ってのがありますが、ディスコ・ブーム終焉期にはシンセサイザーを過剰に使って音を飾りたてる風潮がありました。「ムーヴ・オン・ミー」もそこのセンを狙っていて、イントロから派手にシンセサイザーを使っています。で、この曲のかっこいいところはベース・ライン。シンセ・ベースならではのリフが印象的で、オリビア・ニュートンジョンのボーカルよりこのベース・リフを追ってしまいます。
何週間もチャートのトップを守った前作の「フィジカル」に比べ、「ムーヴ・オン・ミー」はビルボードHOT100 1982年4月3日付チャートから3週連続の5位が最高位。もちろん上位に強力な曲がランクしていたのも事実で、4月10日付チャートでは、1位がジョーン・ジェッツ&ブラックハーツの「アイ・ラヴ・ロックン・ロール」が7週連続トップの4週目を独走中。2位はベリンダ・カーライルが引っ張るゴー・ゴーズの「ウィー・ガット・ザ・ビート」で、これも3週連続2位の1週目。3位は後にトップをとるヴァンゲリスの「炎のランナー」。4位はJガイルズ・バンドの「フリーズ・フレイム」が4週連続4位の1週目ということで、上位の4曲は全て赤丸急上昇中でした。1982年の初頭にオリビア・ニュートンジョンが「フィジカル」で悲劇の曲を産んだことの意趣返しといったところでしょうか。
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1982年5月22日付
第6位 '65 Love Affair - Paul Davis
最下級生としてボート部での下積み時代をしていたころ元気をもらっていた曲が、今回紹介するポール・デイヴィスの「恋人たちのメモリー(原題「'65 Love Affair」)でした。同じく新人だった友人が湖上のナックル・フォアで「エボニィ〜・エンッ・アイボリィ〜」と歌っていたというのが話題になるほど、現在よりも洋楽が身近な時代でした。とにかく1982年の夏は、私が洋楽を最も聴いていた時期で、その思い出の夏の劈頭を飾る曲が、この「恋人たちのメモリー」だったわけです。
ポール・デイヴィスという人は「アイ・ゴークレイジー」とか「クール・ナイト」で知られていて、いわゆるAOR路線のアーティストだったのですが、この「恋人たちのメモリー」は一転ポップでキャッチーな曲調です。華やかなシンセサイザーと変拍子のクッラッピングに当時の私は心を惹かれてしまいました。ブリッジはドゥーワップ、佳境にはチアリーダーの掛け声、そして転調といろんな要素が詰め込まれており、幕の内弁当的な曲を追い求めていた自分にフィーリングが合っていたのかもしれません。PVは1965年当時の時代風景をつづったモノクロ映像。これを朝のワイド番組(TBS系の「朝のホットライン」か「ウェザーりえの朝一番」だったと思う)で観ていたのですから、1982年のテレビは進歩的だったなぁと感じます。
この曲は1982年5月22日付ビルボードHOT100で最高位の6位を記録し、翌週も6位をキープしました。同日の1位曲は前述の「エボニー&アイボリー」(ポール・マッカートニー&スティービー・ワンダー)、2位はリック・スプリングフィールドの「ドント・トーク・トゥ・ストレンジャー」、3位はシャリーンの「愛はかげろうのように」、4位はトミー・ツートーンの「867-5309ジェニー」、5位はレイ・パーカーJr.の「ジ・アザー・ウーマン」と時代を彩った曲が並んでしました。
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1982年6月26日付
第4位 Heat Of The Moment - Asia
80年代が生んだあだ花といったら失礼かもしれませんが、今回紹介するエイジアはそんな表現がぴったりくるバンドだったと思います。メンバーはいずれもプログレッシヴ・ロックで一時代を築いた伝説的バンド出身。ジョン・ウェットン(キング・クリムゾン)、スティーヴ・ハウ(イエス)、カール・パーマー(エマーソン・レイク&パーマー)、ジェフ・ダウンズ(イエス)がバンド結成したというニュースは、当時のロックシーンで結構な話題となりました。しかし作り出した曲は思い切りキャッチーでポップ。「ヒート・オブ・ザ・モーメント」はそんな彼らのファーストシングルで、ビルボードHOT100では1982年6月26日付と翌週のチャートで最高位4位を記録しスマッシュ・ヒットとなりました。この曲が収録されているファースト・アルバム「詠時感〜時へのロマン」は9週にわたってビルボード・アルバムチャートで1位を記録し、全世界で1,500万枚を売り上げる空前のヒットとなりました。
さて、当時この曲を初めて聴いた時の印象は「イントロが大げさ」。これはエイジアのリリースするどの曲にも言える特徴でした。そしてカール・パーマーのドラムが良くも悪くも印象的でした。特に間奏部分で走りまくっていて、他のメンバーが慌ててついていく感がありありと分かり「こりゃ録り直しした方がいいんじゃないの」と思いましたが、後に彼の話の中で「加速感を出すために敢えてリズムを速くした」的なコメントがあり、「時」をテーマにしたコンセプト・アルバムだけに妙に納得してしまいました。また、スティーヴ・ハウの超絶的なギター・テクニックも聴きどころなのですが、現在では学者のような風貌になってしまった彼も再結成時には当時と変わらぬギター・テクニックを見せていました。特に2ndアルバムからのシングル・カット「ドント・クライ」をアコースティック・ギターで演っていたのですが、フラメンコのテイストが入っていて鳥肌が立つほどイイ感じでした。
最後にこの週の上位5曲をさらりとおさらいしておきます。1位は相変わらず「エボニー&アイボリー」、2位はヒューマン・リーグの「愛の残り火(原題Don't You Want Me)」、3位は来月紹介予定のトト「ロザーナ」、4位が「ヒート・オブ・ザ・モーメント」、5位がウィリー・ネルソンさんの「オルウェイズ・オン・マイ・マインド」とかなり雑多な印象です。元ビートルズ・メンバーに流行りのニューウェイヴ・テクノ。超絶テク系産業ロック2曲に、こてこてのカントリーというチャートは現在ではあり得ないパターンで、80年代洋楽の面白さを感じます。
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1982年7月3日付
第2位 Rosanna - Toto
先月に引き続いて今月も、当時「産業ロック」と揶揄された名曲を紹介します。私が聴いたロック・アルバムの中でも5本の指に入る名盤が「TOTO W」(邦題は「聖なる剣」)で、今回紹介する曲は、そのアルバムの1曲目にして最初のシングル・カットであり、いわばこのアルバムのリード・トラックである「ロザーナ」です。アルバムのリリースは1982年の4月だと思いますが、最初に耳にしたのはリリース直前の時期。中学の卒業旅行に出掛ける、東京行きの「大垣夜行」を待つ天竜川駅ホームでした。その月からFM愛知(当時はK-MIXが開局していなかった)で「サントリー・サウンドマーケット」が始まったのですが、開始早々の特集がこのアルバムでした。いままで楽曲を何万曲も聴いてきたと思いますが、初めてその曲を聴いたときの日付、シチュエーションをはっきりと覚えているのは、ほんの数曲にすぎないので、「ロザーナ」はそういう意味でも私の人生にとって貴重な曲だと思います。
中学時代からトトは好きなロック・グループでしたが、4枚目はその集大成ともいえるアルバムで、特に1曲目の「ロザーナ」にはぶっ飛びました。ジェフ・ポーカロによる変拍子(いわゆるハーフタイム・シャッフル)のドラムから始まり、デヴィッド・ペイチのピアノがかぶさり、ボビー・キンボールの高音のボーカルが入っていくという序盤は、「これがロックか?」と思いました。それまでのロックは単純な8ビートの曲がほとんどで、裏打ちの入るレイドバックしたビートに超絶テクニックのアンサンブルは、当時のロックの常識を打ち破ったサウンドでした。また「ロザーナ」で特筆すべき点は格好いいホーン・アレンジ。シカゴのブラス・ロックを都会的に昇華した感じで、ロックにおけるホーン・セクションの使い方の最高峰だと私は思います。
そういうわけで、この4枚目のアルバムは大成功を収め、翌年のグラミー賞ではアルバム・オブ・ザ・イヤーを獲得しました。また、「ロザーナ」もレコード・オブ・ザ・イヤーに輝き、この主要部門も含む6部門を受賞。この年のグラミーは「トトの年」となりました。チャートアクションでは、「ロザーナ」は紹介している1982年7月3日付ビルボードHOT100で2位に上昇し、そこから5週連続で2位をキープ。1位はヒューマン・リーグの「愛の残り火」とサバイバーの「アイ・オブ・ザ・タイガー」に譲っていますが、フォリナーの「ガール・ライク・ユー」と並ぶ「最強の2位」といっていいでしょう。ちなみに、トトはこのアルバムから「アフリカ」を全米1位に送り込み(2013年年2月に紹介予定)、名誉挽回しています。
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1982年8月7日付
第4位 Hold Me - Fleetwood Mac
フリートウッド・マックといえば当時全米の家庭にレコードが必ずあると言われたスーパーバンドでした。遅ればせながら彼らの存在を知ったのが、今回紹介する「ホールド・ミー」がチャートを駆け上がった時でした。1977年リリースのアルバム「噂」が1,700万枚の売り上げを記録し、その後「牙(タスク)」を1979年にリリースして、今回の「ホールド・ミー」が収録されている「ミラージュ」を1982年に発表。このアルバムからの最初のシングル・カットに私が出会ったという訳です。ロック・バンドというのは大ヒットしてしまうと、必ずメンバーの仲が悪くなり、それぞれがソロアルバムを発表してバンドが解散という流れに至るのですが、フリートウッド・マックも例外ではなく、特にバンドの中に2組のカップルを抱え、それが破局してしまったためにドロ沼化してしまったのが悲劇でした。
「ホールド・ミー」は暑い夏の盛りに聴くのにお似合いな涼やかサウンドで、真夏にヒットチャートを上昇していったのも頷けます。特にピアノとギターのピッキングの掛け合いが涼しげで聴きどころだと思います。さて、フリートウッド・マックは3人のリード・ヴォーカルを抱えるバンドですが、「ホールド・ミー」ではリンジー・バッキンガムがリードをとり、クリスティン・マクビーがデュエットするというスタイルでした。私が好きなヴォーカリストの1人、「歌姫」スティービー・ニックスはコーラスでちょこっとしか参加していないのが残念です。まぁその分、2ndシングル・カットの「愛のジプシー」は、ほとんど彼女のソロの曲と言っていいくらい独特のダミ声が聴けますので、こちらも機会があれば試聴されることをお勧めします。
スーパーバンド待望の新作からのファースト・シングル「ホールド・ミー」は、ビルボードHOT100では最高位4位(1982年7月24日付〜9月4日付の7週連続)。トップは獲れませんでしたが、7週もその位置をキープしたのは、やはり根強い人気があった顕れでしょう。ちなみにその期間中トップに君臨し続けたのは先月でも述べたサバイバーの「アイ・オブ・ザ・タイガー」、2位は先月紹介した最強の2位であるトトの「ロザーナ」の後にジョン・クーガーの「青春の傷あと」、3位はジョン・クーガーの後にスティーヴ・ミラー・バンドの「アブラカダブラ」ということで、いずれも私の高校1年生時代の夏を彩った思い出の曲ばかりです。来月は、その中でも最高の1曲を紹介します。
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1982年9月11日付
第1位 Hard To Say I'm Sorry - Chicago
私が30年前の洋楽シーンを振り返るというこのコーナーを立ち上げたのは、今回紹介する「素直になれなくて」をどうしても取り上げたかったからというのがひとつの理由です。私の好きな音楽は80'sのアメリカン・ロック。なかでも最高なのが1982年の全米チャート。そして1982年の曲の中で最も好きな曲が、シカゴの「素直になれなくて」ということで、私が最も好きな曲じゃないかという公式が成り立つのです(実際にはそう簡単なものではないのですが…)。デビッド・フォスターの手による珠玉のバラードに、シカゴの至宝であるピーター・セテラのヴォーカル。この曲のピアノのイントロが流れると、ちょっとウルウルっときてしまいます。
この曲を最初に聴いたのは当然1982年の夏なのですが、私の思い出に残っているシチュエーションはもっと後の時代になります。ひとつめは、1987年の9月1日。バイクで北海道を回ろうと青函連絡船の夜行便で函館に渡るつもりが、悪天候のため青森で足止め。嵐が過ぎ去った朝の青森駅の食堂で朝食をとっていると、食堂でかかっていたラジオからこの曲が流れてきました。晩夏とも初秋とも言えないこの時期(全米1位をとったのもこの時期でした)に偶然耳にしたこの曲に心奪われました。2度目は1997年の3月ころ。人間関係に疲れる日々を送っていましたが、夕方外回りでクルマを運転していると、偶然FMラジオ(一路真輝さんの番組だったと思います)からこの曲が流れ、運転中にもかかわらず涙があふれました。
ビルボードHOT100では、1982年9月11日付とその翌週の2週連続で1位を獲得しましたが、20位以内には7月17日から10月23日まで実に3か月以上もランクインしており、1982年夏を代表する曲といっても過言はないでしょう。ちなみに1位を獲得した時のTOP5の曲は、2位がサバイバーの「アイ・オブ・ザ・タイガー」(翌週は3位)、3位がスティーヴ・ミラー・バンドの「アブラカダブラ」(翌週は2位)と8月とほぼ顔ぶれは変わりません。4位はジョン・クーガーの「ジャック・アンド・ダイアン」が上がり、5位はエア・サプライの「さよならロンリーラヴ」の後に、メリサ・マンチェスターの「気になるふたり」と懐かしい曲もランクインしています。
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1982年10月16日付
第3位 Eye In The Sky - The Alan Parsons Project
1982年の全米チャートにおいて、私が一番に思い出すのは先月取り上げた「素直になれなくて」ですが、それと一緒に思い出す楽曲が今回取り上げるアラン・パーソンズ・プロジェクトの「アイ・イン・ザ・スカイ」です。通学前の朝食の時、「ウエザーりえの朝一番」を毎朝見ていたのですが、金曜日は「ウィークエンド・ポップス」と称してその週のビルボード・チャートを紹介していました。シカゴ16のアルバム・ジャケットをバックに「素直になれなくて」が流れると、次はジャケットいっぱいに目が描かれた映像をバックに「アイ・イン・ザ・スカイ」が流れました。秋のもの哀しさに似合う、切ないメロディとヴォーカル。朝の忙しい時間にもかかわらず、その一瞬はたそがれていました。
当時の私はFMエアチェックが中心で、気に入った曲があるとFM音源をカセット・テープに録音&ダビングして聴いていました。そのため、この「アイ・イン・ザ・スカイ」もFMから流れるシングル・バージョン(8ビートのベースから始まるやつ)しか聞いたことがありませんでした。ある時、NHK−FMのクロスオーバー・イレブンでこの曲のアルバム・バージョンがかかり、偶然耳にした私は衝撃を受けました。プログレっぽい壮大なインスト曲「シリウス」からメドレーでつなる「アイ・イン・ザ・スカイ」は、今まで聴いていた曲と同じにもかかわらず、「プログレッシブ・ロック」のテイストを持っていました。また、つなぎ部分のベースの音がちょっと好きになってしまい、ここばかり繰り返して聴いていたほどでした。
さて、この曲のビルボードHOT100における最高位は、1982年10月16日付から同年10月30日付の3週連続3位。この上の2曲は、当時ブレーク中のジョン・クーガー「ジャック・アンド・ダイアン」とメン・アット・ワーク「ノックは夜中に」でした。4位あたりにはドゥービー・ブラザーズを解散してソロになったマイケル・マクドナルドが「アイ・キープ・フォーゲティン」で秋の夜長にぴったりなシルキー・ボイスを聞かせていて、季節感があるいいチャートになっていました。
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1982年11月6日付
第2位 Who Can It Be Now? - Men At Work
中学、高校と洋楽にハマって良かったと思うことのひとつに、なんやかんやで英語という受験教科に有利に働いたことが挙げられます。それの最たるものは大学の二次試験でボブ・ゲルドフの「ライヴ・エイド」の長文読解が出題されたことです。まぁ、そんな大ホームランだけでなくシングルヒット的なものでは、いわゆる慣用句がタイトルや歌詞の中にちょいちょい現れて自然と覚えてしまうという効用もありました。今回紹介するメン・アット・ワークなんかは、バンド名がいきなり慣用句(=工事中)で、彼らのアルバム名「Business As Usual」も慣用句(=日常生活)でした。そしてそのアルバムからのファースト・シングルカットが今回紹介する「ノックは夜中に」です。
いきなり珍妙なサックスのイントロから始まるのですが、このイントロは耳に残ります。またボーカルのコリン・ヘイの声も味があっていいですね。スティーヴ・ルカサーやニール・ショーンといった超絶テクを持ったギタリストはいろいろと注目を集めますが、こういう印象的な声を持つ人(スティングとかスティーヴィー・ニックスもしかり)が歌ってしまうと、ギタリストも脇役だなぁと感じてしまいます。特に人間の声に近いサックスと絡ませると一層味わいが出ますので、メン・アット・ワークは自分たちのストロング・ポイントをうまく生かして頂点に立ったといえるでしょう。
さて、何度か言及していますが、1982年の夏季(このコーナーでいうと5月から11月まで)は、私の音楽人生の中でも最も全米チャートに傾注した時期ですが、その掉尾を飾るに相応しいのが、この「ノックは夜中に」だと思います。ちなみにビルボードHOT100では、1982年10月30日付でトップに輝きました(1週間で陥落したため今回紹介している週では2位ですが…)。11月6日付チャートの第1位は、これもボーカルに癖があるジョー・コッカーが美声のジェニファー・ウォーンズとデュエットした「愛と青春の旅たち」。4位のマイケル・マクドナルド「アイ・キープ・フォーゲティン」まで含めて、ボーカルに味わいのある曲が上位にランクしていた週でした。
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1982年12月4日付
第20位 Pressure - Billy Joel
1982年リリースのビリー・ジョエルのアルバム「ナイロン・カーテン」は商業的には失敗だったと言われています。というのも彼のスタジオ録音アルバムとしては「グラス・ハウス」と「イノセント・マン」の間にリリースされていますが、前後のアルバムが全米1シングル(グラス・ハウスからは「ロックン・ロールが最高さ」、イノセント・マンからは「あの娘にアタック」)がリリースされましたが、「ナイロン・カーテン」からは、今回紹介する「プレッシャー」が最高位20位、次のシングルの「アレンタウン」が17位と、辛うじてベスト20入りしたまでとなっているからです。しかしアルバム・タイトル「ナイロン・カーテン」が、リリース当時の東西冷戦を象徴する言葉「アイアン・カーテン(鉄のカーテン)」を皮肉っているように、社会的なメッセージを含んでおり、特に「グッドナイト・サイゴン」や「アレン・タウン」にその傾向が見られます。
さて、「ナイロン・カーテン」から最初にシングル・カットされた「プレッシャー」ですが、前作「グラス・ハウス」に見られる「ガラスのニューヨーク」「ロックンロールが最高さ」そして「真夜中のファンタジー」といったストレートなロックから微妙に路線変更をし、シンセサイザーを多様したニューウェーブ的なサウンドとなっています。ビリー・ジョエルの大ファンであり、人生で最良の洋楽に囲まれていた当時の加藤少年は、世間一般のこのアルバムの風評など関係なく好きになり、最初のシングルカット曲であるこの曲は歌詞を翻訳するくらい熱中しました。歌詞の中に「Psych 1, Psych 2 What do you know?」というフレーズがありますが「psych」の訳が難しく、ようやく「Psych 1」が大学の授業科目「心理学T」だということが分かった時は胸のつかえが取れました。その3年後には私自身が大学で社会心理学を専攻することを決めていますので、私の人生において、この曲にも多少なりとも影響されたといえるでしょう。

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