次に小野路村豪農層の民心収攬策を推測したもう一つの理由である、武州多摩郡の吉祥寺村、下染屋
村、田無村の豪農層の貧農救済策に触れてみたいと思う。
 まず吉祥寺村について。吉祥寺村の慶応4年(1868)の持高別階層構成は第9表のとおりである。
[第9表]吉祥寺村持高別階層表
持高石(石) 人数(人)
30〜25

25〜20
20〜15
15〜10
11
44
24
10〜5
33
5〜3
30
130 16 71
3〜0
100 55
合計
183 183
100
註 森安彦「明治初年、東京周辺における農民闘争」より引用

3石以下の零細農は100人おり全体の55%にも達している。また潰百姓の数をみてみると1石層で3 軒、1石以下の層では19軒もある。零細農の没落は明らかである。吉祥寺村の農民層分解はかなり激化 していることがわかる。このような状況において、名主をはじめとした上層農民は、自らを防御するため に貧農層救済策をとらざるをえなかった。文久元年(1861)3月、中農層以上の者50名が施行人と なり、「極々難儀之者」35名に金9両、稗31石余、大麦2石余、粟7斗余を無償で与えた。また慶応 2年(1866)7月の武州一揆直後には、村内の者75人から窮民に対して助成金104両が申し出さ れ、内11両余と大麦3石余、稗6石余が集まって
窮民18名に配分された。これらのことから、吉祥寺村の上層農民たちの貧民層に対する階級的対応のし
方がよくわかる。
 第二に下染屋村をみてみることみする。下染屋村の名主兵右衛門(粕屋家)は天保の飢饉を契機に、天
保8年(1837)5月、窮民救助を目的として、名主兵右衛門を蔵元に、年寄、上染屋村の名主、府中
新宿の名主、年寄等が世話人となって運営に参加する「囲い倉」の計画をたてた。この「囲い倉」は備荒
貯蔵を目的とし、まず粕屋家が1500両を猿屋町貸金会所へ納め預け、その年5分の利子75両を毎年
粕屋家が蔵元として受け取って、籾や雑穀等を買い入れ、これを貯蔵するというものであった。そして余
った金を「溜利金」として困窮農民の救済にあてた。これら「囲い倉」「溜利金」は、小前農民の没落を
くい止めるという働きと同時に、自分たち豪農層の階級的防止策としても有効に機能したのである。
 最後に田無村の例であるが、田無組合40ヶ村の寄場惣代名主下田半兵衛は、嘉永7年(1854)
10月、彼の持畑1町歩(高3石5斗)を小作に出し、その作徳金を村内の70歳以上の老人に小遣いと
して分け与えた。これを「養老畑」というのであるが、安政2年(1855)から慶応元年(1865)
の10年間に合計131人、割渡金額総計106貫200文に達した。ちなみに、下田家は武州一揆の際
鎮圧側に廻り、鎮静のため出勤する農兵に兵粮を寄付している。
 以上小野路村を中心にみてきたが、農民層分解を見る限り、かなり階層分化は激しく、尊王攘夷派に傾
いていった村々と何ら変わるところはない。ただ豪農層が村落内に基盤を持ちえ、支配権を握っていたと
いう事は考えられる。とすれば、新選組の背景を見てゆくためには、当時の客観的基礎課程の分析だけで
はなく、更に他の要因をも見てみなければならないといえるであろう。
左上写真・・・・・小野路の名主小島家  「新選組写真集」新人物往来社より

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