ここで比較する意味で、野州上都賀郡中粕尾村の階層構成をみてみることにする。粕尾村からは慶応3年
(1867)11月29日の野州出流山挙兵参加者を同郡永野村に次いで多く出している。

[第8表]中粕尾村階層構成
  (畑所有規模別分布)

反別
人数
35〜
0.6
30〜35
25〜30
0.0
20〜25
15〜20 15
9.0
10〜15 12
7〜10 35 69 41.3
5〜7 34
3〜5 31 82 49.1
1〜3 35
0〜1 16

 註 高木俊輔「明治維新草莽運動史」
より引用      

畑作地帯で、畑作所有規模の分布は第8表のように3町5反以上が1戸であるのに対し、1町以下が90
%以上で、特に3反以下が49.1%と村全体の約半数にあたっている。これは農民層分解が進んでいる
ことを示している。(註5)
 このように、佐幕へ向いていく小野路村も、尊王攘夷運動に関わった粕尾村も、同様に農民層分解が起
こっている。
 かなり階層分化が進んでいる小野路村では当然下層農民の生活は困窮しているものと考えられる。しか
し小野路村からは一揆は起こらず、逆に武州一揆を契機として本格的な農兵組織の編成を行い、世直し層
との対決の姿勢を強めている。ではなぜこのようになったのであろうか。私は2つの理由が考えられると
思う。1つは小野路村は三四ヶ村組合村の寄場であり、名主をはじめ村役人層の支配権力が、一ヶ村の名
主・村役人と比べて強かったと言えよう。もう1つは豪農層の民心収攬策である。これについては資料を
見つけることができなかったので推測の域を脱しないが、小島資料館の小島政孝氏によれば、当時の名主
鹿之助は農民たちに施を行っていたらしいという。(註6)私はこの民心収攬策の裏付けとして、小島家文
書の「土民蜂起打毀し顛末見聞漫録」(註7)における鹿之助の武州一揆に対する感想と、同じ武州多摩郡
の吉祥寺村、下染屋村、田無村の豪農たちの貧農救済策(註8)をあげたいと思う。
 小島家文書の「土民蜂起打毀し顛末見聞漫録」は鹿之助が慶応2年(1866)6月19日夕、一揆の
動静を監視するために各地に派遣した同家の手代の報告や鎮圧に参加した代官・手代衆の報告をもとに記
されたものである。その中で所沢村打毀しの様子を書いた後に、

 嗚呼平常貧民を不恤、一己の利欲を事とし迷利不仁之奸商共、天道之応報其疾事芦葉ニ猛火を襄し如く、
 後来是を以宜く鑒誡すべし

と感想を述べている。鹿之助は物質渡世も行っており、自分と同じような層の人々が打毀しを受けた事に
対してこのようなかなり批判的な気持ちを抱いた鹿之助が、「平常貧民を不恤、一己の利欲を事とし」た
とは考えられない。おそらく彼は常に下層農民に目を向け、彼らが非常手段に訴えねばならなくなる前に、
なんらかの救助策を行っていたのではないだろうか。

(註5)高木俊輔「明治維新草莽運動史」201頁。

(註6)昭和51年(1976)5月15日聞き取り。

(註7)近世村落史研究会編「武州世直し一揆資料」所収。

(註8)森安彦「明治初年、東京周辺における農民闘争」(佐々木潤之介編「村方騒動と世直し」上巻所収)125-129頁。

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