新選組関連年表


                                                       
年月日   新選組関係事項          摘要                明治維新関係事項
文久2年
(1862)
12.8
幕府の浪士組募集の
決議
清河八郎の献策を快諾 .伏見寺田屋騒
.生麦事件
文久3年
(1863) 
1.7
大がかりな浪士募集 芹沢鴨、近藤勇らが浪士組に応募する   ・・・  
2.8 浪士組江戸出発 2.23京着   ・・・  
2.24 建白書を学習院へ呈
     ・・・・・・   ・・・  
2.29 勅諚及び関白近衛忠
熙からの達書が出さ
れる
生麦事件についての
意見書呈出
     ・・・・・・   ・・・  
3.13 浪士組を江戸へ帰還
さす
芹沢、近藤らは京都残留、会津藩預けとなり新選組
と称す
3.4 将
軍家茂上洛、
二条城に入る
3.22 建白書呈出 老中板倉勝静に将軍東帰を諫止する主旨の建白書を
呈出
4.11 
孝明天皇石清
水宮に攘夷祈

4.21 大坂出張 将軍家茂が摂海警備巡視を終えて大坂から京都 に
帰るまでの往復の警備にあたる
(4.21〜5.11)
4.20 
幕府5月10
日を攘夷期限
と上奏す
5.9 
府生麦事件等
の賠償金を英
国に支払い、
英仏両国に横
浜駐兵を許す
5.10 
長州藩下関で
外国船砲撃
6.7 高
杉晋作ら騎兵
隊編成
7.2 薩
摩藩英国艦隊
と鹿児島湾で
交戦
8.18 文久三年八月十八日
の政変
新選組も警備に参加
  昼間−仙洞御所前
  夜間−禁裏御所前
市中廻役に命ぜられる
  →その結果、京都の秩序回復
*この頃から新選組の名声が高まり世間から注目さ
  れるようになる。
8.13 
攘夷親征の勅
旨下る
8.17 
天誅組大和挙
8.22 平野国臣追捕事件T 早朝、木屋町三条下ル山中城太郎宅を襲撃
平野は肥後の同志、松村深蔵とともに縄手通りの茶
亭「松よし」に前夜から泊まり込んでいたため、追捕を免れる
  ・・・  
8.24 平野国臣追捕事件U 未明、同町の古東領左衛門宅(平野が潜伏)を急襲
古東を捕縛、平野は脱出
*「尽忠報国」という名分を期しながらも、尊攘派
  の有志との対立関係がはっきりする
  ・・・  
9.18 芹沢鴨暗殺 9.−局長新見錦切腹
9.18−芹沢・平山五郎暗殺、平間重助脱走
9.23−田中伊織殺害
12.28(?)−野口健司斬殺あるいは切腹
 ◎ほとんど水戸出身者
 *近藤配下の試衛館派と芹沢配下の水戸派との対  立によって起こった内訌ではないか
9.幕府横
浜封鎖交渉を
各国に交渉開
9.25 長州間者の殺害      ・・・・・・   ・・・  
10.
10
公武合体派諸藩
の周旋方の会合に近藤出席
近藤の時勢論 10.12
平田国臣ら但
馬生野の挙兵
10.
15
禄位辞退の上書と口上書呈出 秋頃、幕府は新選組の待遇決定   ・・・  
文久4年
(1864)
1.15
将軍家茂入京 新選組は請願により、大坂に将軍を迎える 2.15
平慶永を京都
守護職に、松
平容保を軍事
総裁職に任命

3.27
戸藩士筑波山
挙兵
元治元年
(1864)
5.3
幕府の反省を促すため上書呈出      ・・・・・・ 4.26
府京都見廻組
を編成
5.20 大坂西町奉行所与力内山彦次郎暗殺      ・・・・・・   ・・・  
6.5 池田屋騒動 早朝あるいは昼間−
 四条小橋の古道具屋升屋喜右衛門方探索
 実は江州坂田郡出身の尊攘派浪士古高俊太郎であ
 り、京都焼打ちを計画していたことが解る
夜−池田屋襲撃
  宮部鼎蔵、吉田稔麿らが討たれる
  ・・・  
6.27 新選組九条河原に陣
を張る
長州藩が武力を背景に建白書を持って強硬に入京を
要請
松平容保は御花畠擬華洞に陣をしき、守護職配下の
諸兵を指揮し、翌日に出勤令を発する
  ・・・  
7.19 禁門の変 新選組は実戦の機会を得ず   ・・・  
7.21 天王山の攻撃 真木和泉ら17人自刃   ・・・  
7.23 残党捜索のため下坂     ・・・・・・   ・・・  
8.4 池田屋騒動の償金が
幕府より下される
近藤は与力上席抜擢を辞退 8.2 長
州征伐(第一
次征長)令下

8.5 四
国艦隊下関攻

8.14
州藩四国と講
和条約を結ぶ
10.下
近藤ら東下 近藤は京都の動きを幕府に告げるため、容保の内意
を受け、永倉・尾形・武田を同行して江戸へ立つ
伊東甲子太郎らの新同志を獲得して11月中旬帰京
  ・・・  
元治2年
(1865)
1.8
石蔵屋襲撃 土佐脱藩浪士らによる大坂市中焼打ちの計画が新選
組に密告され、谷万太郎らが大坂の石蔵屋を襲撃
 大利鼎吉を殺害、浪士の多くは不在
1.2 高
杉ら馬関に挙
兵抗幕を決す
2.23
副長山南敬助脱走、
切腹
     ・・・・・・   ・・・  
慶応元年
(1865)
四月下旬
(永倉新
八による

慶応3年
3月)
西本願寺集会所に移転 新選組の再編成
5人に1人の伍長(6人が組の単位)
12人に1人の組長(13人を1隊とする)
*文武練習の課目も立て師範を置く
 撃剣・柔術・槍術・馬術・砲術・文学
◎規約に触れる者の処罰をする
       ・・・・・ほとんど死による
   ・西本願寺から不動堂村への移転
       期日不明(慶応元年初秋あるいは
            慶応3年晩秋)
3.15
州藩諸隊を再
編成す
5.12
府長州再征を
令し、江戸・
大坂はじめ各
幕領の寺社・
豪商・豪農に
献金を命ず

5.13
膳所藩士河瀬太宰宅
襲撃
(膳所藩の獄)
膳所藩の獄前後に新選組はこれに関係した者の追捕
をする
  ・・・  
9.21
第二次征長の勅許を
得る
     ・・・・・・ 9.19
大使レオン・
ロッシュ幕府
に征長意見を
呈出
11.4 近藤ら広島出張T 訊問使として大目付永井尚志らが広島へ派遣される
   *新選組から近藤・武田・伊東・尾形が随行
    を命ぜられる
10.5
政諸条約を勅
慶応2年
(1866)

1.28
近藤ら広島出張U 1/22長州藩処分奉文書
1/26小笠原長行を全権に広島出張を決定
2/4大坂発
 *1/28小笠原一行に先立ち、近藤・伊東・篠原・
  尾形が出発
1.21
長同盟成立す
4.9第二
騎兵隊立石孫
一郎の一隊、
倉敷代官所を
襲撃す
6.7 幕
府、第二次征
長開始
7.20
軍家茂(21
)大阪城で病

8.21
州再征停止の
勅命下る
9.12 三条高札事件 夜新選組警備中、土佐藩士8人が高札を抜き去ろう
として斬り合いになる
  土佐藩−2名死亡、宮川助五郎捕縛
9.4 征
長軍撤兵開始
9.26
(?)
伊東ら分離 慶応3年3.10御陵衛士を拝命 12.5
川慶喜将軍宣

12.25
孝明天皇
(36)崩御
慶応3年
(1867)

6.10
新選組幕臣となる 格式が与えられる
近藤−見廻組与頭格(御目見得以上)、後に「大久
   保剛」の名をうける
6/12幕臣になることに対して異論を立てた茨木司ら
   10名が脱走
  会津藩公用人に分離を乞う請願書を呈出
6/14茨木ら首謀者4人を暗殺
1.9睦仁
親王(明治天
皇)践祚
5.四侯会
議開く
5.21西
郷隆盛、板垣
退助ら薩土倒
幕の密約を結

5.24
庫開港の勅許
下る
6.14 近藤親藩会議に出席
する
四侯の建白書を激しく批判
*近藤は建白書を摂政二条斉敬に上呈する
 ◎この頃には新選組は京都において他の有力な諸
  侯にも桔抗しうる名声と実力えおもっていた
  =見廻組与頭格としての京都の治安維持だけに
   とどまらず、政治的結社の性格を具備しつ
   つあり、その総長である近藤の一挙一動が朝
   廷の内外をとりまく諸侯の圧力となってい
   た
6/24近藤の主張に同調し、土方らが柳原前光、正親
  町三条実愛の二卿の屋敷を訪ね幕臣の立場から
  陳情する
 cf.近藤の名声、新選組の政治性を表すこと
    朝彦親王(賀陽宮)の日記に近藤や新選組
    の記述がでてくる  
7.27
岡慎太郎、陸
援隊を編成
9.20 近藤後藤象二郎と初
めて会う
     ・・・・・・ 9.18
長出兵密約
9.19
州が参加
10.3
内豊信、将軍
慶喜に大政奉
還を建白す
10.15大政奉還
11.
18
油小路の変(高台寺
党)掩殺
夜、伊東甲子太郎暗殺
死体を取りに来た服部ら3名死亡、篠原ら4名は薩
摩藩邸に逃げ込む
11.15
坂本・中岡、
京都近江屋で
暗殺される
11.29
長州藩兵摂津
打出ノ浜に上
12.7 天満屋事変 陸奥陽之助ら海援・陸援両隊関係者16人が三浦休
太郎(紀州藩士)の宿、油小路天満屋を襲撃、三浦
の護衛に当たっていた新選組と闘う
  襲撃側−十津川郷士中井庄五郎即死
  ・・・  

[次回に続く]

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