このような状況にあって、豪農層はどのような対策を行ったのであろうか。一つ は、領主権力と結びついて農兵政策を村落内において、より徹底し、世直し層との 対決の姿勢をはっきりと打ち出す者たちである。そしてもう一つは、新しい政治動 向に期待をかける者たちである。彼らは尊王攘夷派志士とつながりを持ち、積極的 に資金援助をした。  慶応3年(1867)に入っても、関東地方においては一揆の起こる情勢が依然 として持続していた。村落内に指導権を持つ豪農たちは、農兵制を積極的に押し進 め、世直し層との対決の準備をした。しかし経営不振に陥った者や、あるいは前々 から尊王攘夷派志士と交わりがあった豪農層は、村落を飛び出して政治活動により 危機を乗り切ろうとした。一般的には彼らは、村落内に農兵隊を強力に組織し、そ れを維持するだけの基盤を持ち得ず、常に下からの危機にさらされていたため、再 び村落内における指導権を回復する方法として、対外決戦という非常事態により状 況の打開を試みようとしたといえる。つまり彼らは、尊王攘夷派運動に自ら参加し たり、あるいは尊王攘夷派志士の運動に危機の打開を託すことにより、世直しの状 況の進行に対処しようとしたのである。  このように豪農たちは、二つの政治勢力のいずれか一方、すなわち幕藩権力に結 びつくか、それとも尊王攘夷派(あるいは討幕派)に結びつくかによって、自らの 危機感の解決をしようと試みた。しかしもはや幕藩権力には豪農の利益を保全する 力が
なくなっており、豪農と領主権力との間の溝が急速に深まってきた状況の中で、豪
農が二者択一的に選んだ政治勢力は、一般的には尊王攘夷派(あるいは討幕派)の
方であったと考えられる。(註1)
 以上のように、関東においては尊王攘夷派と結びつく豪農層が一般的であったの
であるが、その中で江川太郎左衛門支配下に代表されるように多摩地方の豪農たち
は尊王攘夷派とは結びつかず、領主権力と結びつくことにより農兵政策を押し進め、
世直し層との対決の方向を示した。さらに後になって、日野宿や小野路村の農兵隊
は官軍とも戦うことになる(小野路村の農兵隊は実際には戦火を交えなかった。)。
この多摩地方こそ、前述した新選組の幹部や後援者の出身地であった。武州多摩郡
の特殊性はいったいどこに起因するのであろうか。そのことについて考えていきた
い。

左上写真・・・・・近藤勇の書  「新選組写真集」新人物往来社より (註1)高木俊輔「明治維新草莽運動史」191-204頁。高木俊輔「維新史の再発掘」(NHKブックス) 74-79頁。佐々木潤之助「世直しの状況」(「講座日本史」第五巻所収)

 

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