それらのことから考えると、第1章でみたような新選組の諸活動の背景には、 武州多摩郡の豪農・村役人あるいは自作上層農民としての階級的意識が働いてい たのではないかということが考えられる。そこでまず、一般的な「世直しの状況」 下での関東豪農層のあり方及び世直し騒動への対応の仕方をみていくことにする。 慶応2年(1866)6月13日、武州秩父郡名栗村に端を発した世直し騒動 は、武州十四郡に波及した。これが代表的な世直し騒動の武州一揆である。この 一揆は経済的要因と政治的要因という二つの契機によって起こっている。まず経 済的要因であるが、これが一揆の発端となった。一揆を起こした名栗村などの山 村では、米などの主食を在郷町の米穀商から購入していたのであるが、彼らはそ の日の米にも事欠くようになり、その結果、米穀商の前貸支配の下で身動きのと れない状態になっていた。しかもその上、不作・飢饉が続くという悪条件が重な った。このような状況に、さらに長州再征という政治的要因が加わったのである。 長州再征により都市における米穀の需要が増大したため米穀値段が高騰し、それ が諸物価高騰にはねかえった。また長州征伐に伴う人夫役負担の増加は、兵賦金 の高割りなど、年貢増徴と実質的に同じように機能し、一般農民層の生活を圧迫 した。このような状況の下に武州一揆は起こったのである。 武州一揆における農民たちの要求は、米穀を安価に売り渡すこと、質地・質物 を無償で返還すること、騒動へ人足を提供することであった。また彼らは、物価 の高騰を「横浜開港の故」と、外夷との関係として憤っている。そして彼らが打 毀しの対象としたものは、豪農・村役人と外国と取引をしている商人たちであっ た。 開港後の関東地方の豪農・村役人層というのは、一般的に停滞的ないし没落の 方向をたどる者の方が、横浜商人と結びついて飛躍的に発展する者よりも、はる かに多かった。それ故、関東の豪農層の間には、尊王攘夷を受容する基盤があっ たといえる。村内においては彼らは村落の名望家として、塾や寺子屋を開き教育 活動を行った。その教材として尊王攘夷に関するものを導入し、また剣術や撃剣 などを取り入れた。そして村外においては、学問や剣道を通じて自分と同じ様な 悩みを持つ層との交流を深め、豪農層相互間の連携を強めた。これらの豪農層は 幕藩権力の限界、つまり領主権力が自分たち豪農層の利益をもはや守るだけの力 のないことを認識していたのである。
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