近藤は再挙を期して元新選組の同志を中心に下総流山に陣を構え、征討軍との決
戦を計画した。慶応4年(1868)3月14日、近藤らは武蔵国足立郡五兵衛新
田に宿衛し、同年4月1日にここを出発、下総流山に陣を張り同志約120名を募
集した。この時近藤は、大久保大和の仮名を用いている。
 しかし4月3日早朝、東山道鎮撫総督府副参謀有馬藤太らが流山を急襲したため、
不意をつかれた近藤は抗戦しても不利と察し、恭順の意を示した。そして近藤は官
軍に抵抗する気持ちが毛頭ない事を述べ、板橋の本営まで出頭するようにとの命令
にも従った。ところが途中越ヶ谷まで行ったとき、偶然薩摩軍に参加していた元伊
東甲子太郎一派の生き残りである加納わし雄に出会い、大久保大和が偽名であり元
新選組局長近藤勇であることが見破られてしまった。そのため近藤は捕縛され板橋
で投獄された。そして4月8日、東山道総督府監察脇田頼三が主任となり、近藤の
取り調べが行われた。その際、薩摩藩代表平田九十郎は寛典論を主張し、土佐藩代
表の谷守部らは厳刑論を唱え、土佐と薩摩との間に意見の対立があったようである。
(註32)しかし東山道総督府の香川敬三は谷と共に激しく近藤の断首を主張したため、
ついに近藤の断首梟首が決定した。4月25日、近藤は板橋で処刑され、その後三
条河原と大坂千日前に梟首された。

 ところで流山で近藤と別れた土方歳三ら新選組の残党は、慶応4年(1868) 4月12日市川宿で大鳥圭介の軍に加わった。そして東北各地を転戦し敗走の後に、 明治元年(1868)10月11日、榎本武揚の率いる旧幕府艦隊に合流し、蝦夷島へ向かった。 同年11月に箱館五稜郭を占領し、翌明治2年(1869)3月25日宮古湾の戦に 臨んだが敗戦、ようやくのことで宮古湾を脱出して箱館へ戻った。同年5月13日、 新政府軍の攻撃を受けた五稜郭はついに落城し、榎本武揚らは降伏し、ここに戊辰戦争 は終結する。その榎本ら降伏の2日前、土方歳三は箱館に迫った新政府軍との戦闘中、 流れ弾に当たって戦死している。

左写真・・・・・新選組袖章 「新選組写真集」新人物往来社より

(註32)近藤勇の取り調べの様子については、 谷干城の手記に詳しく述べられている。(平尾道雄「新撰組史録」271-275頁参照。)

<3>

前のページに戻る(新選組) 新選組関連年表

  バックナンバー目次に戻る