新選組 <7>
 

第三節 解体期(慶応3年〜慶応4年)          ・・・鳥羽・伏見の戦以降・・・            

土方歳三 (「新選組写真集」新人物往来社 より)  

 慶応3年(1867)10月14日、15代将軍徳川慶喜は大政を奉還したが、
同年12月9日、王政復古の大号令が発せられた。新選組は永井尚志に同行し、
12月14日下坂することになったが、途中伏見にとどまり伏見警備にあたること
になり、本陣を伏見奉行所と定めて新しく隊士の募集がされたようである。伏見警
備につく直前の12月12日の調べによると、隊士は合計66名であった。
 ところでこの頃伊東甲子太郎一派の残党は伏見の薩摩藩邸に身を寄せていた。彼
らは盛んに近藤勇をねらっており、またそのことは近藤も承知していた。
 同年12月18日、近藤は永井尚志の招きで二条城へ登城しての帰り、夕刻に伏
見街道墨染で篠原泰之進ら伊東一派の残党に鉄砲で肩を狙撃されるという事件が起
こった。かなりの重傷で、まもなく近藤は療養のために大坂へ下った。このため土
方歳三が近藤に代わって新選組の統率することになる。

 慶応4年(1868)正月3日、鳥羽・伏見の戦の火蓋が切って落とされた。し
かしこの戦いは幕府軍の完全なる敗北であった。6日には将軍慶喜が軍艦開陽丸で
江戸へ引き揚げてしまった。
 薩摩軍は洋服に鉄砲であり、刀槍を主とした新選組は全く歯がたたず、山崎蒸、
井上源三郎をはじめとし、主立ったものだけでも20名以上の戦死者を出し、大坂
へ退却した時には戦死・脱走などで戦い前には150人ほどいた隊士の3分の2を
失ってしまった。この敗戦で土方らは、もはや槍や刀では戦争はできないことを痛
感したのである。
 同年正月12日、開陽丸の後を追った富士山丸は、近藤勇と新選組の生き残りを
乗せて大坂を出航した。同年15日品川につき、20日には新選組の一同は丸の内
大名小路鳥居丹後守役宅を宿舎として提供されている。

 慶応4年(1868)正月7日、慶喜追討令が出され、続いて10日には慶喜ら
の官位剥奪、領地没収の令が出た。そして次々に征討軍が差し向けられた。
 主戦論を唱える近藤は、土方歳三、永倉新八ら新選組の隊士を中心に甲陽鎮撫隊
を結成し、征討軍の進軍を防禦するために甲府城を占拠することにした。そこで幕
府の撤兵隊・伝習隊・八王子千人同心の応援を求め、江戸浅草の団左衛門とその同
志などを加えて約200人の隊士を集めた。隊長の近藤は大久保大和と仮称し、若
年寄格となり、副長土方は内藤隼人と変名し、寄合席格を与えられた。そして慶応
4年(1868)3月1日、甲陽鎮撫隊は江戸を出発した。しかし1日違いで東山
道征討軍が先に甲府城に入城してしまい、しかも同月6日の勝沼における戦いに大
負した甲陽鎮撫隊は八王子まで敗走した。この状態のままでは戦えぬことを悟った
近藤は、ここで一時隊を解散させ、江戸の大久保主膳正の屋敷で再会することを決
定した。
 しかし再び集まったものは少数であり、その上試衛館以来の同志である永倉新八、
原田左之助と近藤との間に意見の衝突がおこり、袂を分かってしまっている。

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