伊東甲子太郎らは茨木司ら4人の死を知り復讐をする計画を企てた。また彼らの
中には近藤暗殺の計画もあった。その上藤堂平助が美濃大垣の侠客水野弥太郎と結
び、何事か企てようとしているという。これらの情報が斎藤一から新選組にもたら
され、このまま伊東らを放置しておくことができなくなり、近藤勇は伊東一派の掩
殺を決定した。
 慶応3年(1867)11月18日、近藤は伊東を七条醒ヶ井の寓所に招いた。 招いた理由は明らかではないが、国事の談合のため(西村兼文「新撰組始末記」) ともいい、伊東に依頼されていた金子を手渡すため(「新撰組永倉新八」)とも いわれている。近藤宅には土方歳三ら旧友を集め酒宴を催し、伊東の帰りは夜の 9時頃になってしまった。その帰途、伊東が木津屋橋を東に入ったところで、待ち 伏せていた新選組の大石鍬次郎らに刺殺された。新選組は伊東の死体を七条油小路 まで運びそこにうち棄て、町役人を使って月真院の伊東一派に死体を取りに来るよう 連絡させた。知らせを聞いてすぐに篠原泰之進、鈴木三樹三郎、服部武雄、毛内有 之介、藤堂平助、富山弥兵衛、加納わし雄の7人が死体を引き取りに行き、そこで 待ち伏せていた新選組と乱闘となるが多勢に無勢で、まもなく敗走し薩摩藩邸に逃れた。 この時服部、毛内、藤堂は討死した。新選組は伊東ら4名の死体をさ
らに3日間そのままにしておき残党を誘い出そうとしたが、とうとう現れなかった。

 茨木司ら4人と伊東ら4人の掩殺により、新選組は再び近藤一派の手に完全に握
られることになった。ちょうどこれらの内訌と平行して、政局は大きな転換を向か
えようとしていた。
 慶応3年(1867)のはじめ、薩摩の島津久光、伊予宇和島の伊達宗城、土佐
の山内豊信、越前の松平慶永の四侯会議が京都で行われた。同年5月23日には四
侯は連署で、長州処分および兵庫開港の並行討議に反対する上書を幕府に呈出して
いる。四侯はさらに同年26日にも連署で建白書を朝廷に上呈し、その中で幕府の
失敗を追求し、まず長州処分の寛大を、次いで兵庫開港を議するのが順序であると
述べている。しかし四侯会議は内部対立と幕府の圧力によって行き詰まり失敗に終
っている。
 慶応3年(1867)6月14日、このような状況の中で幕府側の親藩会議が開
かれた。これには近藤勇も出席しており、席上近藤は四侯の建白書を激しく批判し
ている。(註29)この頃にはもはや近藤は、単なる京都市中の治安維持を司る役割だ
けではなく、佐幕派の一勢力として朝廷の内外に大きな力を持つようになっていた。
(註30)またその近藤を隊長とする新選組は、警察隊的な性格のみにとどまらず、政
治的な結社としての性格も帯びるようになってきたと考えられる。同年6月24日
には近藤は土方歳三らを同行して柳原前光、正親町三条実愛の二卿に幕臣の立場で
陳情している。さらに近藤は9月20日、大目付永井向志宅で永井の紹介により後
藤象二郎と面接し、これ以後2人の間には交際があったようである。

   慶応3年(1867)11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町の近江屋 で何者かに暗殺されるという事件が起こったのであるが、紀州藩公用人三浦久太郎が その黒幕ではないかということで狙われたため、三浦の旅宿である京都油小路の天満屋 を新選組が警固することになった。同年12月7日夜、ついに海援隊の陸奥陽之助ら 16名が鉄砲をもって 天満屋を襲撃したが、三浦は軽傷を負ったのみで無事逃亡した。

左上写真・・・・・油小路木津屋橋辺り
右写真・・・・・天満屋(現在なし)
ともに「新選組写真集」新人物往来社より


(註29)近藤勇の主張の内容は、慶応3年(1867)6月の摂政二条斉敬宛の建白草案によって知る
     ことができる。(同書、203−204頁参照。)

(註30)「朝彦親王日記」に近藤勇についての記述がでてくる。とくに慶応3年(1867)9月13
   日付け」によると、幕府大目付原市之進の暗殺により、原に代わって近藤を登用したらどうかと
   いう案を会津藩の秋月悌次郎に伝え、また近藤を朝彦親王の侍臣として借用したい旨を述べてい
   る。(同書、205−208頁参照。) 
 

<4>

前のページに戻る(新選組) 新選組関連年表

  バックナンバー目次に戻る