伊東甲子太郎らは茨木司ら4人の死を知り復讐をする計画を企てた。また彼らの 中には近藤暗殺の計画もあった。その上藤堂平助が美濃大垣の侠客水野弥太郎と結 び、何事か企てようとしているという。これらの情報が斎藤一から新選組にもたら され、このまま伊東らを放置しておくことができなくなり、近藤勇は伊東一派の掩 殺を決定した。
らに3日間そのままにしておき残党を誘い出そうとしたが、とうとう現れなかった。 茨木司ら4人と伊東ら4人の掩殺により、新選組は再び近藤一派の手に完全に握 られることになった。ちょうどこれらの内訌と平行して、政局は大きな転換を向か えようとしていた。 慶応3年(1867)のはじめ、薩摩の島津久光、伊予宇和島の伊達宗城、土佐 の山内豊信、越前の松平慶永の四侯会議が京都で行われた。同年5月23日には四 侯は連署で、長州処分および兵庫開港の並行討議に反対する上書を幕府に呈出して いる。四侯はさらに同年26日にも連署で建白書を朝廷に上呈し、その中で幕府の 失敗を追求し、まず長州処分の寛大を、次いで兵庫開港を議するのが順序であると 述べている。しかし四侯会議は内部対立と幕府の圧力によって行き詰まり失敗に終 っている。 慶応3年(1867)6月14日、このような状況の中で幕府側の親藩会議が開 かれた。これには近藤勇も出席しており、席上近藤は四侯の建白書を激しく批判し ている。(註29)この頃にはもはや近藤は、単なる京都市中の治安維持を司る役割だ けではなく、佐幕派の一勢力として朝廷の内外に大きな力を持つようになっていた。 (註30)またその近藤を隊長とする新選組は、警察隊的な性格のみにとどまらず、政 治的な結社としての性格も帯びるようになってきたと考えられる。同年6月24日 には近藤は土方歳三らを同行して柳原前光、正親町三条実愛の二卿に幕臣の立場で 陳情している。さらに近藤は9月20日、大目付永井向志宅で永井の紹介により後 藤象二郎と面接し、これ以後2人の間には交際があったようである。
左上写真・・・・・油小路木津屋橋辺り 右写真・・・・・天満屋(現在なし) ともに「新選組写真集」新人物往来社より
(註29)近藤勇の主張の内容は、慶応3年(1867)6月の摂政二条斉敬宛の建白草案によって知る ことができる。(同書、203−204頁参照。) (註30)「朝彦親王日記」に近藤勇についての記述がでてくる。とくに慶応3年(1867)9月13 日付け」によると、幕府大目付原市之進の暗殺により、原に代わって近藤を登用したらどうかと いう案を会津藩の秋月悌次郎に伝え、また近藤を朝彦親王の侍臣として借用したい旨を述べてい る。(同書、205−208頁参照。)
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