伊東ら御陵衛士は山稜奉行戸田忠至の支配下に編入され、同年6月8日、善立寺
から東山の高台寺の月真院に移った。これより1か月ほど前5月に、荒井は再び
太宰府を訪れている。また同年8月にも伊東、荒川は太宰府へ出張している。前
  述の慶応3年(1867)正月の伊東らの九州遊説や5月、8月の太宰府行きは、 中岡慎太郎や三条西季知らの日記等に記されている。(註27) その内容から解ることは、(1)伊東らが太宰府を訪れたのは、彼らが新選組を離脱し 御陵衛士となったことや、幕府の様子、宮中の動きを報告するためであろうということ、 (2)当時太宰府にいた五卿や討幕派の志士たちの日記等に記されるまでに伊東は 討幕派に接近していた、ということである。
 また伊東は、ことに薩摩藩の大久保一蔵、中村半次郎らと密接に交わり、倒幕
の陰謀に参加するにいたったといわれる。大久保一蔵を伊東に紹介したのは、薩
摩藩の浪人で新選組に入隊した富山弥兵衛である。御陵衛士としての給与の多く
は大久保の手から支給され、小荷駄方は薩摩藩が取り扱った。

 ところで新選組は慶応3年(1867)6月10日付で格式を与えられ幕臣と
なった。今まで辞退していた近藤が今回格式を受けた理由としては、同年5月24
日に兵庫開港の勅許が下り、近藤らの目標であった挙国攘夷の望みが不可能にな
ってしまったことと、めまぐるしく変化する現状の中で浪人という不安定な状態
のままでいるよりも正式に幕臣となった方がよかろうと考えたからだといわれて
いる。これによって見廻組与頭格となった近藤勇は、元高300石に役料300
石を加えて600石となり、御目見得以上の格式を与えられて、後に「大久保剛
」の名を受けている。また見廻組肝煎格の土方歳三は、70俵に役料5人扶持が
与えられ、「内藤隼之助」の名を申しつけられた。
   [第4表]新選組の格式 (平尾道雄「新撰組史録」より)   
見廻組与頭格 隊長 近藤勇 右同断 緒(尾)形俊太郎
同肝煎格 副長 土方歳三 見廻組 調役 茨木司
見廻組格 助勤 沖田総司 右同断 村上清
右同断 長(永)倉新八 右同断 吉村貫一郎
右同断 原田左之助 右同断 安藤主計
右同断 井上源三郎 右同断 大石鍬次郎
右同断 山崎蒸 右同断 近藤周平
 
 しかし幕臣になることには異論を唱える者が多く、当初は6月5日に格式を発
表するはずであったが、それが延びて10日になってしまったのである。
 同年6月12日、異論者である茨木司、佐野七五三之助、富川十郎、中村五郎
ら10名が、高台寺月真院の伊東甲子太郎のもとへ脱走した。そして翌13日、
茨木らは会津藩の公用人に対して脱隊の歎願書を呈出した。(註28)茨木、佐野、
富川、中村の4名は、伊東らが分離する際新選組の内情を知るために隊に残した
伊東の間者であるともいわれている。
 翌14日脱走者10名は、再び脱退交渉のため京都守護職会津藩邸へ行った。
そして代表者として茨木、佐野、富川、中村の4人が一室に案内されたのである
が、その席で4人は新選組の大石鍬次郎らによって殺害されている。残りの6人
は追放処分になった。しかし新選組は茨木ら4人の死について、歎願が受け入れ
られないための自殺である、と発表している。

(註27)久留米藩士真木直人の日記、中岡慎太郎の「行々筆記」、土方楠左衛門の「回天実記」、    三条西季知の日記、長州藩士品川弥二郎の日記に伊東甲子太郎らの動きが記されている。       

(註28)平尾道雄「新撰組史録」178頁参照。

左上写真・・・・・御陵衛士屯所高台寺月真院 「新選組写真集」新人物往来社より

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