新選組 <6>
 

第二節 活動期(文久3年〜慶応3年)       二、伊東甲子太郎一派の入隊から掩殺まで            (元治元年〜慶応3年) [その3]
近藤勇 新選組の印鑑 
(「新選組写真集」新人物往来社 より)  

 慶応2年(1866)9月7日、幕府の要請で兵庫開港・長州藩処分等諸問題の
対策を講ずるため、尾州・紀州・土佐・薩摩など20余の諸藩主の京都会議が召集
された。伊東甲子太郎はこの諸侯会議を機会に尾州の徳川慶勝をたよって長州処分
の寛典を実現させようと考えた。そこで同年9月15日に伊東は篠原泰之進ととも
に名古屋に向けて旅立った。そして19日に来名し、尾州藩重役に会見を申し入れ
て慶勝の上京を約束させるに至った。(註26)しかし結果的には伊東らの周旋もむな
しく慶勝は上京しなかった。
 このように広島出張以来、伊東・篠原らは近藤とは全く別行動をとるようになっ
ており、近藤勇・土方歳三ら近藤一派と伊東・篠原ら伊東一派との間の対立はもは
や収拾がつかないものになってしまった。伊東らはこの頃には新選組脱隊への働き
かけをしているようである。そして慶応2年(1866)9月26日夜、つまり伊
東らが名古屋から帰ってきた翌日、伊東・篠原は七条醒ヶ井の近藤勇寓所に行き、
土方を交えて天下の形勢を論じた。この時伊東らは新選組を分離したい旨を切り出
したが、近藤は分離を許さなかった。そこで翌日の夜再び近藤の寓所を訪れ、近藤
・土方に分離を許可するように迫った。この時には近藤は分離を許可している。
 伊東一派は慶応3年(1867)正月、勤王運動のために各地へ遊説に行ってい
る。伊東は荒井忠雄らとともに九州太宰府へ赴き、また清原清と佐原太郎は勢州へ、
中西登は江州へ、富山弥兵衛は中国地方へ、それぞれ出張した。
 慶応3年(1867)3月10日、伊東らは泉涌寺塔頭戒光寺の長老湛然の周旋
で伝奏の命をもって孝明天皇御陵衛士を拝任し、五条通りの善立寺(一説には長円
寺)へ移った。伊東に従った同志は、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、荒井忠雄、加納
わし雄(道之助)、阿部十郎、内海二郎、中西登、橋本皆助、富山弥兵衛、清原清、
毛内有之介、服部武雄、藤堂平助、斎藤一の14名であった。(佐原太郎を加えて
15名とする説もある。)このうち斎藤一は近藤の間者として伊東一派に加わった
者である。また藤堂平助は試衛館以来の近藤の同志であった。藤堂は伊東と同じ北
辰一刀流であり、しかも勤王攘夷論が伊東と同じであったため、かなり親しい間柄
であったらしい。そもそも伊東が新選組に加わったのも、藤堂が近藤東下より一足
先に江戸へ行き、伊東加盟に尽力したためであった。試衛館以来の同志である藤堂
が新選組を離れたのは、おそらく「勤王」の点における近藤との思想的な対立によ
るものであろうと考えられる。


(註26)「秦林親日記」(「新選組覚え書」所収)

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