近藤らは滞在中、長州藩の内情を探ることが役目であったらしい。そこで近藤ら
は芸州藩士の添状を携えて岩国の境まで出かけたが、長州入りは果たせなかった。
永井尚志の広島出張により長州の情勢を大まかながらつかんだ幕府は、長州処分を
決議した。そして慶応2年(1866)2月4日、長州処分の全権を任せられた小
笠原長行は、永井尚志らを随行させ、広島に向けて大坂をたった。この一行に新選
組の近藤勇、伊東甲子太郎、篠原泰之進、尾形俊太郎は再び大小監察方として加わ
り、長行らの警備と時勢探索の任にあたっている。(註22)
しかしこの広島行きは、新選組にとっては内訌の前触れでもあった。今回広島へ出
張した四人のうち、伊東と篠原は元治元年(1864)晩秋に近藤が東下した折りの
同志募集に応じた者たちであったが、この頃には新選組内にいわゆる伊東一派として
近藤と対峙するほどの実力を持っていた。伊東は前述のとおり勤王攘夷論者である。
篠原は横浜で英人を縄縛して海岸に引き出すほどの攘夷論者であり、また勤王論者
でもあった。そして伊東の右腕として重きを置いている人物である。(篠原は新選組
脱退後は鈴木三樹三郎らとともに赤報隊に加わっている。)だから勤王論者である伊
東、篠原は、初めから佐幕派の近
藤らとは思想的に合うはずはなかったのであるが、攘夷の一点に接点を見いだして
いたものと思われる。(註23)これまでにも伊東一派と近藤一派とはたびたび意見の
衝突はあったようであるが、ついに今回の広島出張に際し、伊東・篠原は近藤とは
全くの別行動をとるに至った。まず小笠原長行が広島に着陣して後、二人は長行に
面謁して尊王の議論をしており、また諸藩の周旋方と会議をし、長州処分の寛典を
立論している。そして伊東・篠原の二人は広島滞留中の50余日、しきりに徳川の
悪政を討論していたというのである。(註24)伊東一派はこの広島出張から約7か月
半の後に新選組を分離することとなるが、この広島出張における伊東・篠原の行動
は、明らかにそれを暗示している。
慶応2年(1866)6月7日、長州との交渉は断絶し、ついに第二次長州征伐が
開始された。ところが戦況は幕府に全くの不利であった。それにつれて京都は、再び
尊王攘夷派・倒幕派の浪士の動きが活発になり、慶応2年(1866)8月29日の
夜、何者かによって三条大橋に立てられていた高札(註25)
墨汁で塗りつぶされ加茂川原に投げ捨てられるという事件が起こった。9月2日に
新しいものを作って立てると、ま
た何者かにより同様のことが行われた。そこで9月10日、もう一度同じものを新
調して立てるとともに、京都町奉行は新選組に警備を依頼した。そこで十番隊の原
田左之助以下が厳重な監視をすることになった。
9月12日の夜、ついに浪士たち8名があらわれ、激しい斬り合いの末、1名を
捕縛し、1名を斬殺した。これらの者たちは実は土佐藩士であり、捕縛されたのが
宮川助五郎、斬殺されたのが藤崎吉五郎であった。その他安藤謙治も重傷を負い自
殺した。10月20日には殊功者に対し松平容保より褒美が下賜されている。