新選組が西本願寺に屯所を移転した頃、隊士の増加や京都の政情不穏などの原因
により、局中法度を犯す者が増えてきた。局中法度に触れる点は大きく2つに分か
れ、一つは新選組に対する政治的背信、もう一つは品行についてである。これらの
違反者は、ほとんど「死」によって処罰されている。その主な例をあげてみると次
のようである。
 武田観柳斎(五番隊組長・文学師範頭)
   薩摩屋敷に出入りして隊の機密を漏らしたため斬殺(慶応2年9月28日)
 田中寅蔵(剣術師範頭)
   過激な攘夷説を主張したため隊規を乱すとして切腹(慶応元年3月15日)
 河合耆三郎(勘定掛)
   会計帳簿の不正発覚により断首(慶応2年2月12日)
 谷三十郎(七番隊組長・槍術師範頭)
   原因不明の頓死(慶応2年4月1日)
 川島勝司(治)(伍長)
   除隊後隊命を冒用して金策をしたことにより梟首(慶応・年月日不明)
この他にも多くの者が処刑され、また生死不明の者も少なくない。
 ここで屯所移転について一つ言及しておくと、この後新選組はもう一度京都におい て屯所を移転している。それは次のような理由によるものである。
 ある日新選組の隊士が京都市中見廻り中、肥後熊本の藩士一人を無礼をはたらいた 廉で屯所まで連行した。そのため肥後の壮士との間に騒動が持ち上がってしまった。 この騒動に西本願寺はついにたまりかね、
建設費その他すべて寺の負担で移転をするように話をもちかけた。そこで新選組は
不動堂村へ移転することになったのである。しかし、移転した期日は不明であり、
慶応元年(1865)初冬とも、慶応3年(1867)晩秋とも伝えられている。

 慶応元年(1865)5月16日、将軍家茂は長州再征のために江戸をたった。
同年閏5月21日に江州膳所藩本多家の居城に宿泊することになっていたのだが、
膳所藩士河瀬太宰らが長州に同情し将軍親征を諫止する計画を企てたことが暴露し、
家茂は大津泊まりとなる、という事件が起こった。ただちに松平容保は守護職配下
の者に犯人の捕縛を命じ、新選組も佐野七五三之助らが加わって、巣内式部ら数名
を捕縛した。
 難を逃れた将軍一行は京都へ行き参内し、その後大阪城へ入った。そして9月21
日第二次長州征伐の勅許が降りたのであるが、家茂は兵を動かさず、その代わりに
訊問使として大目付永井尚志、副使として目付戸川はん三郎忠愛の一行が広島に出
張することとなった。
  この一行に新選組から近藤勇、武田観柳斎、伊東甲子太郎、尾形俊太郎の4人が選 ばれて同行した。近藤は近藤内蔵助と変名し、永井の給人役に、武田は近習として、 伊東は中小姓、尾形は徒士として一行に従っている。一行は11月16日広島に着 き、20日に長州側の使節穴戸備後介に「訊問八箇条」(註21) を渡し弁疏させた。永井らは12月16日には近藤ら4人と別れて広島を立ち大坂へ 戻っている。

(註21)前出、「新撰組史録」156−157頁参照。

左上写真・・・・・近藤勇書翰。元治元年10月のもの。
右上の写真・・・・・伊東甲子太郎、鈴木三樹三郎兄弟が母こよ女にあてた手紙。

                        ともに「新選組写真集」新人物往来社より 

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