第二節 活動期(文久3年〜慶応3年) 二、伊東甲子太郎一派の入隊から掩殺まで (元治元年〜慶応3年) [その2] 近藤勇 新選組の印鑑 (「新選組写真集」新人物往来社 より) 慶応元年(1865)4月下旬(永倉新八によると慶応3年(1867)3月)に 新選組は西本願寺の集会所へ屯所を移す。この頃に、隊士の増加や山南敬助の切腹 などで、組織の再編成を行っている。これによると、従来の「局長」を「総長」と し、「副長助勤」を「組長」と改め、新たに「参謀」を置き、「伍長」の制度を設 けている。また第3表の他に、小荷駄方、書記、取締方なども設置している。
第二節 活動期(文久3年〜慶応3年) 二、伊東甲子太郎一派の入隊から掩殺まで (元治元年〜慶応3年) [その2]
慶応元年(1865)4月下旬(永倉新八によると慶応3年(1867)3月)に 新選組は西本願寺の集会所へ屯所を移す。この頃に、隊士の増加や山南敬助の切腹 などで、組織の再編成を行っている。これによると、従来の「局長」を「総長」と し、「副長助勤」を「組長」と改め、新たに「参謀」を置き、「伍長」の制度を設 けている。また第3表の他に、小荷駄方、書記、取締方なども設置している。
[註](1)伍長の奥沢栄助は元治元年(1864)6月5日、池田屋騒動で戦死している。 (2)伍長の葛山武八郎は元治元年(1864)9月6日、切腹している。 (3)伍長は2名不明。 第3表により、文武の錬磨のために師範役を命じていることが解るが、文武の練 習は主に真剣の型を使い、切腹の介錯をやらせて人を斬る呼吸を覚えさせたり、真 夜中に真剣試合をさせたり、実戦を念頭に置いた徹底したものであったらしい。し かし、特筆すべきは文学師範頭の設置だと思う。これは伊東らの加盟も大きな原因 であろうと思うが、近藤自身激務の中でも習字を怠らなかったという。また近藤は 江戸にいた頃、神田昌平橋畔に住む溝口誠斎について漢学を修めており、また小島 為政(註20)と義兄弟の契りを結び、武は近藤勇、文は小島為政という関係であった らしい。近藤は自ら東州と号し、漢詩も激務の暇を見つけて勉強していたようであ る。こういう近藤自身の精進ぶりから考えて、文学師範頭を置いたというのは、文 武両道を重んじる近藤が武のみの集団として新選組を考えていなかった、というこ とが解ると思う。 (註20)天保2年生まれ。武州多摩郡小野路村の名主であり、小野路寄場村外三四ヶ村組合村の寄場名 主でもあった。苗字帯刀を許された。公務繁忙の中に漢学を田中黙斎、菊池菊城に学び、漢文を 遠山雪如に師事し、後に大沼枕山、倉田幽谷に添削を受ける。近藤周助に剣を学び天然理心流の 目録を与えられている。明治4年(1871)に設立された小野郷学の中心人物でもある。
前のページに戻る(目次) 次のページに進む(新選組)