第二節 活動期(文久3年〜慶応3年)       一、池田屋騒動中心に            (文久3年〜元治元年) [その1]
芹沢鴨の死後新選組の実権を完全に握った近藤勇は、土方歳三ら試衛館以来の 同志を中心に隊を総括した。近藤は芹沢亡き後、新選組統制と京都の治安との 両面において、会津藩からかなり信頼されていたようである。(註8) またこの頃までには、近藤は佐幕派の有力者の会合に出席するほどまでに世間 から認められるようになっていた。文久三年八月十八日の政変で尊王攘夷派に代 わって政治の中心となった公武合体派の諸藩は、しばしば周旋方による酒宴を催 し、公武合体策推進の会合を持った。10月10日に祇園「一力楼」で開かれた 会合に出席し、堂々と彼の時勢論を説いた。近藤の主張は次のような内容であっ た。すなわち、今までの攘夷は薩長両藩の自分の藩のみの攘夷であり、我が国挙 げての攘夷ではない。そうであるからには、「第一公武合体専一致し、其上幕府 において断然攘夷仰せ出で被れ候はば自然国内安全とも存じ奉り候。」もともと 外国に対する問題から天下が騒がしくなり内乱が起こったのだと思う。だから、 「政府を助け皇国一致仕、今日のように海岸防禦策略より他之有る間敷く」とい うものである。この近藤の主張に各藩士は皆同意し、将軍の再上洛と政権委任以 外に国内の紛糾を防ぐ方法(註9)はないということで意見が一致した。  ところで文久三年八月十八日の政変の後、幕府は新選組と江戸の新徴組に禄位 を給することにし、新選組にその旨の達しがあった。それに対して文久3年(1 863)10月15日、近藤勇は上書と口上書を京都守護職松平容保に呈出し、 禄位の辞退を申し出ている。そこで近藤は、自分たちは外夷攘払の魁として御奉 公するつもりであるが、まだそれを果たすことができないでいる。それなのに禄 位を頂いて報国志士共が万が一にも志がくじけたりしたらどうしようかと心配す る。功績をあげた暁には有り難く禄位を給わるつもりである、という意味のこと を述べて辞退している。また近藤は口上書で平野国臣追捕事件をあげ、自分たち に召取方御用を仰付られたことはほんとうに有難いことであるが、「併し乍此儀 は今日之御奉公と相心得候。私共志意は外夷攘払魁仕」(註10)ことであると述べ、 近藤は決して京都市中見廻りに甘んずることを快しとしていなかったということ がわかる。  こうして近藤は禄位の辞退をしたのであるが、長州藩京都引き揚げに際し、新 選組の行動は機宜をえたものであったとして、将軍家から恩償の沙汰があったよ うである。この恩償の沙汰の時期であるが、「新選組永倉新八」(註11)によると 「秋」ということになっている。もし永倉の記憶に誤りがないとしたら、禄位辞 退の前後に恩償の沙汰があったことになる。局長は大御番頭取とよばれて月の手 当50両、副長は大御番組頭といって月40両、副長助勤は大御番組といって月 30両、平同士も大御番組並とよばれ月10両ずつ給された。また斬り捨て御免 の特権も与えられたようである。これにより新選組はますます勢い盛んになって いった。
(註8)この頃江戸にいる近藤勇の義父であり師匠である近藤周助(周斎)が急病のため、近藤の実    兄宮川音五郎らから近藤に帰郷を促してきた。しかし近藤が留守にすると隊の統制が乱れる    ので、京都守護職会津藩の重役、広沢富次郎・大野英馬が近藤の在京の了解を得るため9月    23日付で一書を差し出している。(「新撰組史録」68−69頁参照。) (註9)同書、77−79頁。 (註10)同書、72−75頁。 (註11)前出、「永倉新八 新撰組顛末記」所収。

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