明けて文久4年(1864)正月6日、将軍家茂は海路大坂に到着し、15日に
入京した。その道中の警備を新選組は請願し、会津藩公用方の監督の下にそれを許
された。(註12)新選組はこの将軍再上洛に、かなりの期待を持っていたようである。
ところが公武合体の見通しが立たぬままに家茂の江戸引き揚げが決定してしまった。
そこで新選組は、元治元年(1864)5月3日に幕府の反省を促すため、会津藩
公用方を通じて幕府老中へ上書を呈出した。その上書には、将軍東下に対する反対
と、新選組の京都市中見廻りの役目についての不満が述べられている。「天皇の命
に従って御上洛遊ばされ、公武の御一和皇国の基本の御成立をお謀りになる趣旨と
相承り、我々に至るまで有り難いことと心得ておりましたところ、成功も之無く、
ついにお帰り遊ばされました上は、またまた形勢沸騰してしまうのでは御座いませ
んか。」と将軍上洛への期待と、東下による弊害の起こることを心配し、また自分
たちは尽忠報国の有志として募られ上京したのだから、京都市中見廻りのために御
奉公しているのではないことを述べた。そしてその上で、「万一御発駕におなりに
なれば、銘々離散を仰せつけられたらいかがですか、またはそれぞれお帰しになっ
たらいかがですか、何れともご処置を仰せつけられますよう願い上げ奉ります。」
と新選組の進退についてまで言及している。(註13)この上書によっても、新選組の
将軍上洛に対する期待の大きさがわかる。しかし将軍家茂は、元治元年(1864)
5月7日、新選組の上書呈出の4日後に京都を立ち下坂してしまった。

 ところで新選組はかねてより、京都四条の古道具屋升屋喜右衛門を不審に思って
いた。そこで元治元年(1864)6月5日、升屋を不意に襲ったところ、升屋か
ら武器、弾薬、志士との往復書類がみつかった。そこで升屋喜右衛門を逮捕し拷問
を加えたところ、本名を古高俊太郎という江州坂田郡の尊王攘夷派浪士であること
が解った。その上、6月20日前後の烈風の夜に、禁裡中心に四方に火を放ち、中
川宮にも放火し、守護職会津侯が参内するところを要撃して天皇を長州に動座する
という陰謀があることも解った。また新選組は、三条小橋の旅宿池田屋惣兵衛方と
縄手通りの旅宿四国屋重兵衛方で尊王攘夷派浪士の集会があるという報告を受け、
そこで守護職と所司代に連絡をとり、五ツ時(午後8時)に一斉に出動することを
申し合わせた。しかし定刻になっても会津勢は現れず、ついに四ツ時(午後10時
)になってしまったので、近藤勇は新選組隊士30人(大坂出張、病気などでその
日は30人しかいなかった)を二手に分け、池田屋へは近藤らが、四国屋へは土方
らが向かった。結局四国屋には浪士は一人もおらず、土方らはすぐに池田屋へ引き
返した。一方池田屋にはかなり多くの浪士がおり、近藤の義父に宛てた手紙(註12) によれば、討取7人、手疵を負った者4人、召捕23人となっている。実際にはこれ 以上の者が死亡したり捕らえられたりしている。池田屋に集合していた主な人物は、 肥後の宮部鼎蔵(自殺)、松田重助(即死)、長州の吉田稔麿(即死)、杉山松助 (傷死)、広岡浪秀(傷死 )、佐伯靱彦(捕縛)、土佐の野老山五吉郎(傷死)、
石州潤次郎(即死)、北添佶麿(即死)、望月義澄(自殺)、播州の大高忠兵衛(
捕縛)、大高又次郎(即死)、京都聖護院の西川耕蔵(捕縛)らであり、古高救出
についての相談をしていた。この集会には長州の桂小五郎も参加するはずであった
が、池田屋に早く来すぎて対州屋敷の別邸に行っていたために難を逃れることがで
きた。(註15)
 新選組の池田屋騒動における活動に対し、8月4日に幕府より償金が下付された。
また老中水野忠精、稲葉正邦より近藤を与力上席に取り立てる旨の申し渡しがあっ
たが(註16)近藤は辞退したといわれる。


(註12)前出、「新撰組史録」80頁。

(註13)同書、85−86頁。

(註14)同書、100−103頁。

(註15)下母沢寛「新選組始末記」142−143頁。

(註16)近藤勇の6月8日付の書翰に与力上席に取り立てる話があったことが記されており、どうした
    らよいかを尋ねている。(前出、「新撰組史録」109−110頁参照。)

上写真・・・・・池田屋内部(古写真)「新選組写真集」新人物往来社より 

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