第一節 形成期(文久3年) ・・・新選組結成から近藤勇 一派の指導権奪取まで・・・ [その2] 近藤勇 (「新選組写真集」新人物往来社 より) このころの新選組の組織は前に述べたように組の最高幹部としての局長は芹沢鴨・ 近藤勇・新見錦の三人であった。芹沢と新見はともに水戸出身で、新見は芹沢の右 腕として大きな力を持っていた。芹沢鴨の本名は木村継次といい、常陸国水戸郡芹 沢村の郷士で、水戸系の尊王攘夷論者である。もと天狗党の一員で気性が荒く粗暴 な行動をする事がしばしばあった。浪士隊が木曽路を通って上洛した際にも、かな り乱暴な振る舞いをして、山岡鉄太郎らを困らせたようである。壬生へ来てからも、 京都堀川通り糸問屋大和屋庄兵衛宅の襲撃をはじめとして数々の乱行を行い、つい には四条堀川の呉服屋菱屋の内儀お梅を奪い取り妾としてしまうという始末であっ た。このような芹沢の数々の非常識な行為を放置しておくことができなくなり、文 久3年(1863)9月18日の真夜中、近藤は数人の同志と共にお梅と寝ている 芹沢を襲い刺殺した。この夜は京都島原の角屋で新選組の会合があり、芹沢は大酒 を飲んで駕籠で壬生の屯所へ戻ってきたのであった。近藤らはさらに芹沢の腹心で ある水戸脱藩の副長助勤平山五郎、同平間重助をも襲い、平山は刺殺され、平間は 重傷を負いながらも逃走した。近藤は芹沢、平山の死を、刺客が忍び込み暗殺した と京都守護職に届け出、その上盛大な葬式を行った。また隊士以外の者には、芹沢 は急病で頓死した、と披露した。 実は芹沢暗殺より前の9月上旬、芹沢の右腕であり局長の一人の新見錦が祇園の 遊女屋「山の緒」で非行を責められ詰め腹を切らされている。さらに9月23日、 田中伊織が斬殺され、12月28日頃には、最後の水戸系である水戸脱藩野口健司 も死亡している。斬殺されたという説と切腹したという説とがある。 これら芹沢らの死により局長は近藤ただ一人となり、新選組は完全に近藤一派、 つまり試衛館以来の同志の手に握られてしまった。この内訌を見る時、粛正された のはほとんど芹沢配下の水戸出身者であることから考えて、当時新選組では芹沢一 派と近藤一派との間に何らかの対立が生じていたのではないかと考えられる。つま り、その両者の対立の結果から起こったのがこの粛清であろうと推測されるのであ る。
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