しかし東下が決定した時、これに猛然として異議を申し立てた者があった。それは 近藤一派と水戸の芹沢鴨一派で、近藤・芹沢らは清河と袂を分かち、そのまま京都 に残留することを希望した。(註6)そして「松平肥後守御預」となり、壬生の八木源 之丞宅を屯所として新選組を結成したのである。 近藤・芹沢ら浪士組出身者に加え、多くの志士が新選組に加入してきたので、隊 士は100余名となった。そのため組の統制のために幹部を定める必要が生じた。 そこで有力者の選挙により局長以下第1表のように第一次編成が行われた。
(子母沢寛「新選組始末記」より)
また多くの隊士の規律を正すために「局中法度書」が掲示された。第2表の他にも 内規として数ヶ条あり、いずれも切腹をもって処置する厳しいものであったという。 これ以後新選組は局中法度に基づき、多くの者を処罰していくことになる。
(註6)京都残留者の人数については、13人説、14人説、24人説など8つほどの説があるが、新 選組を結成した当時の人数は、永倉新八の遺稿である「同志連名記」(「永倉新八新撰組顛末 記」所収)に従って13人説が最も信頼がおけるものと思われる。すなわち、 芹沢鴨・近藤勇・土方歳三・原田左之助・藤堂平助・野口健司・新見錦・ 山南敬助・沖田総司・井上源三郎・平山五郎・平間重助・永倉新八 の13人である。
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