新選組 <2>
 

第一節 形成期(文久3年)          ・・・新選組結成から近藤勇 一派の指導権奪取まで・・・
 文久3年(1862)12月8日、幕府は清河八郎の献策(註1)により、浪士募 集の議を決定した。この計画の目的は、尊王攘夷派の志士・浪人の横行に手をやい ていた幕府が、彼らを懐柔統制しようというところにあった。そこで文久3年 (1863)正月7日、老中板倉勝静から松平忠雄にい対して大がかりな浪士募集 をおこなうべく通達があった。この幕府の浪人募集に、江戸の天然理心流道場、試 衛館の近藤勇も、土方歳三ら一門、同士とともに参加した。浪士は幕府が予想した 以上に多く、300名近くも集まった。そこで彼らを7つの隊に編成し、近藤らは 六番隊に平隊士として編入された。この浪士組の浪人取扱は鵜殿鳩翁、取締は山岡 鉄太郎、松岡万らであったが、実際に浪士組で実権を握っていたのは清河八郎であ った。  文久3年(1863)2月8日、浪士組は将軍上洛の前衛という名目で江戸をた ち、同月23日京都郊外壬生に到着した。そしてその翌日はやくも浪士組は活動を 開始した。すなわち2月24日に清河八郎浪士組一同の血判を求めた建白書(註2) を学習院に呈出したのである。翌29日には、勅諚と関白近衛忠煕からの達書き (註3)が浪士組に渡され、また29日には、浪士組から生麦事件に関する意見書 (註4)が幕府に呈出された。 しかし2月24日に清河の呈出した建白書は「幕府のお世話にて上京したといっ ても、禄位はいりません。ただただ尊王攘夷の大儀を願っております。万一天皇の 命令を妨げ私意を企てる輩があれば、例え有司の人であっても、容赦なく譴責いた します。」というものであった。そのため幕府は京都に浪士組を放置しておくこと に対して危険を感じた。そこで生麦事件後のイギリス軍艦横浜港渡来を理由に、江 戸へ浪士組を帰らせようとはかり、文久3年(1863)3月3日付で関白鷹司政 通から朝命として達書き(註5)が浪士組へ下された。清河らはこれを受諾し、3月 13日、浪士組はわずか20日間壬生にとどまったのみで、江戸へ向かって旅立っ たのである。 (註1)清河八郎の浪士募集論は、清河が松平慶永に草した「上幕府大執権春岳公書」の一節に述べられ    ている。(平尾道雄「新撰組史録」20−22頁参照。) (註2)同書、29−30頁参照。 (註3)同書、31−32頁参照。 (註4)同書、33−34頁参照。 (註5)同書、37頁参照。                 

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