文久3年(1863)4月21日、かねてから上京中の将軍徳川家茂が摂海警備
巡視のため大坂に下ることになった。新選組は松平容保に将軍の警護をしたい旨を
申し出て認められ、会津藩士外山機兵衛、平沢富次郎の統師の下に家茂の京都、大
坂間往復の警備にあたることになった。この大坂出張を機会に、新選組は以後大坂
でも勢力をふるうようになる。
少し後の同年7月15日のことであるが、芹沢鴨らが大坂で口論の結果力士を斬殺
するという事件をおこしたことがあった。近藤勇はこれを「無礼撃ち」として大坂西
町奉行所へ届け出たが、与力の内山彦次郎は原因をさらに追求した。それが原因の一
つとなって、元治元年(1864)5月20日、内山は近藤らの手によって暗殺され
ている。
新選組は徐々に浪士隊としての形を整えていったのであるが、
ついに世間から新選組が注目される事件がおこる。それが「文久三年八月十八日の
政変」である。
これには新選組も会津・薩摩などの諸藩にまじり、昼は仙洞御所前、夜は禁裏御
所の南門を警備したのであるが、さらに長州が京都を退いた後の活躍も特筆すべき
ところがあったようである。この時京都市中にはまだ長州藩士や浪士が潜んでいる
やもしれず、また市中の混乱も甚だしい状態であったので、京都町奉行が8月18
日付で市中見廻りの布令(註7)を京都守護職を通して新選組に通達した。この布令
により、新選組は公認の下に京都市中取締りをすることになり、やがて新選組の活
躍により京都の秩序は回復した。そのため9月25日には、朝廷から隊士一人につ
き金一両ずつ下賜された。
この文久三年八月十八日の政変、及びその直後の活躍により、新選組の名は今ま
でに増し高まり、世間から注目されるようになるのである。
ところで文久三年八月十八日の政変による七卿の都落ちの後の8月21日、つま
り新選組が市中見廻りをしていた時であるが、大和から帰郷した者がいた。その人
物が平野国臣で、彼は木屋町三条下ル山中太郎宅に潜伏した。そのことを新選組は
いち早く探知し、翌22日の早朝、山中宅を襲った。ところがその日は平野は不在
であった。危うく難を逃れた平野は、同町の桝屋藤十郎の借家に住んでいる古東領
左衛門宅に再び潜伏した。これをまたしても探知し、24日未明、古東宅を急襲し
た。この時古東は平野を脱出させようとして捕縛されるが、平野は脱出に成功し、
再度難を逃れたのである。この2度にわたる平野国臣追捕事件の意義は、新選組が
平野ら尊王攘夷派志士と同じ尽忠報国の士でありながらも、彼らとは全く方向を異
にする性質のものである、ということを世間にはっきりと示したということではな
いだろうか。これ以後新選組がどのような方向に進んでいくのかが、この事件によ
って暗示されているような気がする。