ところがこのような大衆に圧倒的人気のある新選組が、幕末・維新史の研究対象と して全く取り上げられないのはなぜであろうか。 明治維新の勝者である薩摩・長州を正当づけるための王政復古史観の下では、「 幕府の爪牙」となった新選組は逆賊以外の何ものでもなかった。近藤勇と義兄弟の 契りを結んだ小島為政は、近藤の死後、彼の復権に並々ならぬ努力をしている。彼 は近藤の伝記を著し、近藤と土方歳三の記念碑を建て、また明治22年(1889) 西郷隆盛の罪が許され正三位を追贈された時、為政は近藤の無実論をパンフレット にして配布した。さらに為政の孫孝は、昭和6年(1931)、文部省の維新編纂 の企画が発表された時、近藤の復権のチャンスと考え文部省に記録の採用を申し入 れ快諾されたという。(註1) なんと近藤勇の死後64年目のことであった。 近年の明治維新史研究においても、西南雄藩、特に長州藩の研究を中心にしたも のが主流であり、佐幕諸藩あるいは佐幕論者を研究対象にしたものは非常に少ない。 ましてや新選組のような佐幕派の浪人集団の研究は皆無に等しい。そのような現状 を考えると、昭和3年(1928)[戊辰からちょうど60年目にあたる。]に子 母沢寛の「新選組始末記」と平尾道雄の「新撰組史」[昭和17年(1942)に 改訂版を出し「新撰組史録」と改題される。)が出版されたことは、特筆すべきこ とではないだろうか。 私は本稿において、明治維新の一側面として新選組をみていきたいと思う。 たしかに新選組は「京都守護職支配下の役人、警察隊の1グループ」であること には間違いない。彼らは自分たちの意志とは無関係に京都の治安維持に終始した。 池田屋騒動に代表されるように多くの尊王攘夷派志士を斬り、また新選組の歴史は 内部抗争の歴史であるといわれるほど、新選組内部での斬殺、切腹は珍しいことで はなかった。だからといって、このような新選組の表面的な動きのみを追っていき、 新選組を「暗殺団」とか「武装暴力団」とか定義づけることは正しくないと思う。 反対に「時勢の渦」に巻き込まれた1つの流れというふうに消極的にとらえたり、 「時代の流れに逆行する」行動であると反動性を強調する見解にも私は賛成できな い。 (註1)堀江泰紹「小島為政と近藤勇」(「町田ジャーナル増刊」所収)
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