しかし石坂弥次右衛門義礼の悲劇からわずか2ヶ月後の6月14日、ついに八王子千人隊は終焉の時を向かえ
た。鎮撫府参謀から士籍よりの除去に関する指令が出されたのである。そのため八王子千人隊は3つの道のいず
れかを選ぶことになった。第一の道は新政府に帰順する朝臣願書に署名した朝臣派である。第2の道は徳川家随
従派で、静岡に移住した。そして第3の道は刀を捨てる土着農民派である。その内訳は、朝臣派55人、徳川家随
従派14人(旧千人頭を中心として)、そして土着農民派が812人で、不明は18人であった。このように土着農民派
が圧倒的に多いのは、実は先のように徹底抗戦か恭順か態度を明らかにした者は一部であり、残りの同心の多く
は変質により、封建的観念も進歩的思想も共に有しなかったため、当たらず触らずの態度をとったからであると考
えられる。さらに新政府は、これら土着農民派のうち千人隊拝領屋敷に住居していた者83名に対して慶応4年(
1868)12月17日土地没収令(「上地」)を出した。しかしこの時対象となった83名は陳情歎願運動を起こし、12
月28日に「上地」は取り消され、7ヶ年の期限で玄関取り壊しを条件とする借地権を得ることができた。また明治3
年頃から、土着農民派の中の約250人の旧同心が静岡に移住した千人頭の後を追っている。その一部が八丁谷
(はっちょうや)に入植したのであるが、しかし彼らのほとんどは10年後には再び八王子へ戻ってしまったという。(註25)
 以上八王子千人同心の成立から解体までを簡単に見てきた。家康の遺骸を日光に改葬して以来、日光東照宮は
徳川幕府の守護廟であると同時に、日本統制の支配霊地でもあり、徳川政権維持の精神的な支柱であった。だか
ら政治や信仰の上に大きな影響力を持っている日光東照宮の尊厳維持は、幕府にとって大変重要な意味があり、
それ故その火の番は重大な任務であったはずである。八王子千人同心がその責任の重い、徳川幕府の霊廟を守
護する日光火の番役を命ぜられたということは、彼らにとってこの上もない名誉なことであり、当然彼らの中には、
幕末に至るまで徳川家への忠誠心が強く根をはっていたものと考えられる。勿論彼らの多くの者は変質を遂げて、
そのような封建的観念からは無縁の者となっていたかもしれない。しかしそれにもかかわらず、日光勤番を命ぜら
れてから216年後の戊辰戦争において、彰義隊に加わった者のように徳川の恩顧に殉じた者たちや、日光を戦火
から守った石坂弥次右衛門義礼らを見いだすことができた。両者は方法こそ違え、徳川家に対して忠誠心を持って
いたことにおいては変わりがないのではないだろうか。これらの例から考えて、八王子千人同心の中には、幕末に
至るまでその一部であるかもしれないが、徳川家への忠誠心が根強く残っていたのではないかと思われる。そして
それは217年間続いた日光勤番という任務の成せる業ではなかろうか。

(註25)高橋硯一「八王子千人同心について」(「多摩文化」第10号所収)、野口正久「八王子について」(八王子郷土資料館資料
    シリーズ」第10号所収)、八王子市教育委員会「八王子千人同心について」、森田潤三「八王子千人同心覚書」(「多摩郷
    土研究」第43号所収)、橋本義夫「千人同心と千人隊」(「多摩文化」第10号所収)、佐藤孝太郎「火の番さん有難う」、
    村上直「八王子千人同心成立に関する覚書」(「多摩文化」第7号所収)、「多摩の百年」上巻、42−51頁、「八王子物語」
    下巻、1−11頁


近藤勇(「新選組写真集」新人物往来社 より) 

 近藤勇の写真の撮影時期と場所が桜井幸三さんの研究により明らかになった。桜井さんは印刷業を営む傍ら、幕末明治印刷技術を研究されて いるが、昭和初期の医学雑誌の記述に着目され、近藤の写真の研究に取り組まれた。近藤の写真は上の写真以外に「腕を組んで座った写真」 があるが、関係資料を綿密に調査された結果、どちらも慶応4年江戸医学所頭取・松本良順の役宅を訪れた際に、明治初年の代表的写真師・ 内田九一が撮影したものとわかった。その決め手は近藤が座る敷物の柄だったという。 

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