新選組 <15>
 

第2章 新選組の背景 第3節 八王子千人同心      [その2]

       土方歳三の刀剣 (所有者のご好意により、その写真を掲載させて頂きました。)
              非常に軽く、実戦向きの刀剣であることが解ります。


 ところで、彼らの任務は当初は「武」を中心としたものであったが、平和時においてはその役割も変化して、日光
勤番が八王子千人同心の平時における任務であったことは前述した。ところが幕末の不穏な状況になると、再び
八王子千人同心は本来の「武」を中心とする役割を担うことになる。すなわち、神奈川勤(神奈川・横浜警備)、直
轄地の巡視、第一次及び第二次長州征伐の出陣がそれである。そして慶応2年(1866)八王子千人同心は陸軍
奉行所属となり、翌年名称を八王子千人隊と改めた。しかしこの時には、もはや彼らの終焉は近づいていたので
ある。
 慶応4年(1868)3月6日、一部の八王子千人隊士を含んでいた近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は、勝沼の戦で敗れ、
同月8日、乾退助の率いる東山道征討軍が八王子に進駐した。そして同月12日、八王子千人隊は官軍に対して
無抵抗降伏を行ない、武装解除をした。そして「勤王無二心」の誓書を呈出した。ところが4月11日、江戸城明け
渡しが行われると、それを不服とする旗本や御家人が主戦論を唱え、彼らの一部が八王子に屯集した。そのため
八王子では、一度は恭順したものの、再び恭順か非恭順かの論議が激しく戦わされることになった。
 一方その頃、日光では混乱が極に達していた。当時の日光勤番は千人頭石坂弥次右衛門義礼の指揮する石坂
組同心45名であった。乾退助率いる官軍の一隊は日光に近づいてきており、しかも日光奉行は行方不明になって
いた。石坂は戦火が徳川氏の霊廟である日光山内に及ぶのを恐れ、戦争回避を望んで輪王寺宮らに図り、官軍に
日光を引き渡すことを決定した。そのため日光は戦火から無事守られたのである。そして石坂らは閏4月10日、八
王子へ帰還した。ところが石坂弥次右衛門義礼を向かえたのは、戦わずして官軍に日光を明け渡した彼に対する非
難であった。実は石坂は日光において、八王子千人隊が官軍に帰順し、官軍が無事八王子を通過したという報をう
けていたため(現に約1ヶ月前の3月29日には、八王子では恭順派が優勢で、東山道総督軍副総督柳原前光の一
行は無事八王子宿を通過している。)、八王子では千人頭たちも恭順を唱えているものであると思いこんでいたので
あった。ところが4月20日以降、上野の彰義隊に加わる者が八王子千人隊の中から出てくる(註24)という様に、一転
して八王子では徹底抗戦派が主流となり、石坂が帰ったときには八王子千人隊は非恭順に傾いていたのである。石
坂は翌閏4月11日、自己の責任を痛感して切腹して果てている。

(註24)4月20日から5月12日の間に190余人が彰義隊に加わり「八王子方」と称した。

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