このいわゆる日光勤番は、当初は頭2人と同心100人で50日交代であったが、寛文12年(1671)正月には 頭1人、同心50人の5月、11月半ヶ月交代に変わった。ところが貞享元年(1684)12月4日に日光に大火が おこり、そのため翌年正月には承応の編成に戻された。そして寛永3年(1791)4月、再び頭1人、同心50人の 6月、12月半ヶ月交代に改められた。日光勤番はこのように度々制度的には変更があったが、承応元年(1652) から文政7年(1824)の間に943回、文政8年(1825)から慶応4年(1868)閏4月の間に88回と、217年間 に計1031回を重ねている。八王子千人同心たちは、徳川氏の祖霊を祭る霊廟の守りであるこの日光勤番の度 に、武士になったという名誉感と満足感に満たされた。そしてその気持ちが長い間の彼らの忠勤につながり、また 日光の地を守る同心達の心の支えでもあった。さらに日光勤番は、日常農耕を行っている彼らがこの度ごとに武 士としての地位の再認識を行い、彼らが完全に農民化してしまうことを妨げた。まさに日光勤番は、八王子千人同 心が主君への奉仕による封建的満足感を得る唯一の機会であったのである。 宝永2年(1705)2月15日、八王子千人同心は日光勤番も他に新たに頭2人と同心200人が四谷門内の火消 屋敷に交代で常勤する江戸市中火の番を命ぜられた。しかし彼らは再三再四御役御免の歎願書を呈出し、遂に 宝永5年(1705)3月役を免ぜられた。彼らがそのような歎願に及んだ理由は、江戸市中火の番が日光東照宮の 火の番のように封建的満足感を伴わず、その上一度に200人もの出役は、彼らが農業を営む上で大きな障害と なり、家族を養っていくことが困難になったためである。(註22)このことから宝永の頃には、彼らの経済生活はすで に行き詰まりつつあったことがわかる。 ここで八王子千人同心の経済生活について簡単に触れてみることにする。八王子千人同心は兵農一致であった ため、一般の武士より経済生活に弾力があり、また在農であったので、経済面においても精神面においても衰頽や 変質が一般の武士よりもゆるやかであった。しかし前述のように、宝永の頃になると彼らの経済的衰頽も明らかに なってきた。そのため彼らの任務も、宝永5年(1708)の江戸市中火の番の廃止を皮切りに、寛政3年(1791)に は日光火の番が50人半年交代に改められ、翌寛政4年(1792)になると出役中の組頭等に加扶持が与えられる、 というように変化していっている。そこで彼らの経済的衰頽の例を見ていきたい。 まず同心株の売買である。これには2つのパターンがあり、一つは同心内における売買で、同心中富裕な者が数 人分の株を所有し、それを財産化していく型のものである。もう一つは同心の身分を富裕な農民に譲るもので、こ れによって彼らの実質的農民化が急速に進められた。ちなみに元禄12年(1699)の同心株売買の例をみると、 跡目相続の保証金は15両となっている。更に高利貸しによる窮乏も考えられる。扶持米代理受取所が次第に八 王子千人同心に対する金融機関に発達し、彼らに高利で金を融通するため、彼らはますます困窮化していった。 この融資は扶持米代理受取所に限らず、同心株売買により同心に加わった富裕な農民からもなされた。このよう にしてさらに同心内の貧富の差が激しくなり、窮乏した同心がその地位、つまり同心株を売り出さざるをえなくなる。 ここに及んで八王子千人同心は急速に変質していってしまうのである。さらにこれに加えて彼らにとって人口増加 の問題も深刻であった。そこでその打開策として、後年八王子千人同心の子弟は蝦夷地移住を行っており、その 第一陣が寛政12年(1800)に渡道している。(註23) (註22)宝永2年(1705)12月に、八王子千人同心から槍奉行に呈出された歎願書の要約は次のようである。 前略 貞享元年子ノ12月20日、日光大火がございましたので、同丑の正月より先規の通り、両組100人で当酉年迄21年お勤 め致しましたが、耕作をしかねますため、だんだんと困窮してきましたところに、当2月より江戸、日光両所の御番を勤めさせて頂 くため、耕作ができかね、父母妻子等養いがたくなってきました。言々 (註23)2回にわたり渡道している。第1回は寛政年代(1800年代)、第2回は安政年代(1858年代)であり、渡道の目的は蝦夷地の警備・ 開拓を兼ねた貧乏した八王子千人同心全体の生活問題及び二、三男の就職問題の解決策であった。後の箱館戦争(五稜郭の戦) では官軍と旧幕軍の敵味方に分かれて戦ったのであるが、この節では蝦夷地移住者については触れない。