新選組 <14>
 

第2章 新選組の背景 第3節 八王子千人同心      [その1]

近藤勇(「新選組写真集」新人物往来社 より) 

 近藤勇の写真の撮影時期と場所が桜井幸三さんの研究により明らかになった。桜井さんは印刷業を営む傍ら、幕末明治印刷技術を研究されて いるが、昭和初期の医学雑誌の記述に着目され、近藤の写真の研究に取り組まれた。近藤の写真は上の写真以外に「腕を組んで座った写真」 があるが、関係資料を綿密に調査された結果、どちらも慶応4年江戸医学所頭取・松本良順の役宅を訪れた際に、明治初年の代表的写真師・ 内田九一が撮影したものとわかった。その決め手は近藤が座る敷物の柄だったという。 


ところで兵農分離の完成した徳川時代に、武州多摩郡八王子を中心として兵農一致の状態で存在した八王子千
人同心は、全く特異な存在であった。この例外的な組織の中に、多摩郡の特殊性の一片を見出すことはできない
であろうか。また、新選組と八王子千人同心の間には多少なりとも関係がある。たとえば、近藤勇の率いる甲陽鎮
撫隊が甲府城を占拠しようと進軍したとき(甲州勝沼戦争)、八王子千人同心の一部の者が近藤に呼応している。
また新選組結成以来の幹部である井上源三郎の兄松五郎は日野在住の八王子千人同心で、石坂弥次右衛門
義礼組の世話役を勤めている。(註19)そして松五郎は最後の日光勤番として、日光東照宮を戦火から守った一人
である。新選組隊士の中にも八王子千人同心出身者がいる。土方歳三とともに箱館までいった中島登がそうであ
る。さらに天然理心流との関係を考えると、おそらくかなりの八王子千人同心が近藤、土方等と親交があったので
はないかと考えられる。たとえば井上松五郎と同じ石坂組世話役であった土方勇太郎がその一人である。(註20)
以上のことから考えて、武州多摩郡の特殊性を考える上で八王子千人同心に触れることは無意味なことではない
と思われる。そこで第3節では八王子千人同心の成立から解体までを簡単に見ていくことにしたい。
 天正10年(1582)6月に本能寺の変が起こったが、徳川家康はこの事件の直後に堺から三河に帰り、ここを本
拠地として、同年春織田信長と連合して武田勝頼を倒し武田氏を滅ぼした甲斐の国を、我が手中に収めた。翌2
年武田家の残党は徳川氏に帰順したが、その時帰順した主だった9人の武士(あるいは8人ともいう)は、武田時
代に甲州九口(武・相・駿・信の4ヶ国に通ずる境の関門)を守っていた者たちで、帰順後も今まで同様の任務につ
いたものと考えられる。なぜなら、家康の経営方針は甲州武士に広域な所領を安堵し、武田の旧臣を昔からの伝
統的職域に復活させるというものであったからである。さらに家康は武田の軍制を導入ことにより、自らの支配権力
を強めていった。
 天正18年(1590)北条氏が滅亡すると豊臣秀吉は家康を関東に国替し、甲斐を一時豊臣秀勝に与えた。そこ
で家康は甲斐に対する備えのため、甲州在住ですでに徳川氏に帰順していた小人頭及び同心250人を八王子城
下へ移駐した。(註21) 天正19年(1591)さらに250人を加え、警備軍を500人とした。これは旧北条家臣団の援
撫を目的として行われたらしい。家康は関東経営にあたって、三河譜代に限らず武田や北条の旧家臣団をも存分
に利用したのである。文録2年(1593)頭及び同心の一部を現千人町(当時の五百人町宿)の拝領屋敷に移住さ
せ、残りの同心は現千人町を中心に131ヶ村に分散させた。慶長4年(1595)さらに武田及び北条氏の遺臣と、
由緒ある在地農民から500人を選び、それを加えて1000人とした。ここにおいて「八王子千人同心」が誕生した
のである。


[第2図]頭と同心の関係

                (20〜30人)村落在住
  武田小十人頭 ― 同心 ― 被官
         (寄親 ― 寄子・同心体制)        
    ↓
  八王子千人頭 ― 同心(甲州系)…… 主に拝領屋敷在住

           同心(後北条その他遺臣・名主)
                  村落在住

 註 村上直「八王子千人同心成立に関する覚書」
          (『多摩文化』7号所収)より引用


 千人頭10人(当初は9人だが1人加わって10人となる)は旗本格で、平均5000坪の拝領屋敷を給わった。そ
して知行地として八王子、相模、世田谷、調布、布中、上総の君津を与えられ、禄高は200石から300石であっ
た。八王子千人同心は八王子を中心として多摩全域、入間、相模等の近郷に在村し、平同心の給米は平均13
俵で、7反から1町4、5反を農耕していた。
 八王子千人同心ははじめ老中に属していたが、亨保2年(1717)槍奉行付に、文久2年(1862)講武所奉行支
配に、そして慶応2年(1866)には陸軍奉行の所属と変わっていった。
 次に八王子千人同心の役割を見ていくことにする。初期(徳川幕府成立以前)は「武」を中心としたもので、たとえ
ば天正12年(1584)の長久手の戦、慶長5年(1600)関ヶ原の戦などに参戦している。しかし徳川幕府が成立し
文治主義に方針が変わるとともに、八王子千人同心の役割も変化せざるをえなかった。寛永12年(1635)以降
の彼らの任務は、将軍上洛供奉や日光社参の警護等臨時のものでしかなかったが、承応元年(1652)6月に初
めて平時の任務として日光の防火と警護を命ぜられたのである。

(註19)井上家が八王子千人同心になったのは正徳3年(1713)で、井上藤兵衛がまたいとこの井上八左衛門の空株を次いだのが始まり
    である。松五郎は天保15年(1844)に井上家の家督を継ぎ、八王子千人同心となった。松五郎の父は家督を譲った後、村役人
    (組頭)におさまっている。

(註20)谷春男「井上源三郎」(「新選組隊士列伝」所収)177−178頁。

(註21)八王子周辺の北条遺臣の騒動の警備も兼ねていたと考えられる。

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