上層(1町5反以上)に属する農民のうち農兵に参加している者は31戸中26戸で、5町から3町の層は名主
1名、年寄2名、伍長1名という役付で、4名全員農兵に参加している。10町以上所有しているものは、寄場名
主小島家(16町9反1畝22歩)と橋本家(13町4反1畝13歩)で、農兵隊の指導者である。3町から1町5反の
層は伍長が15名おり、馬持ち9戸、土蔵持ち8名と経済的にもかなり裕福である。上層に属する者たちが農兵
隊の中心であったことは間違いないであろう。下層からも農兵参加者が12名でているが、これは名主家などの
小作人などが多い。この農兵参加者の階層をみて解ることは、農兵隊の指導権が、小野路村の頂点に位置す
る寄場名主小島・橋本両家を中心に、自作上層農民によって握られているということである。農兵隊がまさに豪
農、村役人、あるいは自作上層農民の利益を代表するものであるということが言えるのではないだろうか。
 ところで農兵隊にかかる諸経費は豪農の負担になっていたようである。慶応2年(1866)7月の「土寇予防闔
郷武器均整立替簿」によると、小島増吉(守政、鹿之助の子)が鉢(ママ)鉄50人分、槍17人分で14両3分2朱
というように、武器をはじめ食費、服装費、酒手伝習費(代官手代宿泊費など)は豪農たち村の有力者の負担に
なっている。鉄砲は金額が高いため無尽講でまかなうことにしている。
 慶応4年(1868)になると急に農兵隊の稽古日が増えており、1月28日から3月10日までの44日間に13日
間も稽古を行っている。これは慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦で幕府軍が破れ、将軍をはじめ江戸に
帰還してしまったため、江戸で薩長軍との間に一戦が交えられるのではないかという緊張感からであろうと推測
される。そして訓練も砲術稽古が熱心に行われている。
 そして慶応4年(1868)3月6日、甲州勝沼戦争が始まったのである。小野路村の農兵隊も3月3日、4日、5 日と3日続けて訓練を行っている。小島鹿之助は近藤勇と義兄弟であるので、甲陽鎮撫隊の後援部隊を受け持ったと 思われ、日記には出陣の記事は見られないが、5日の午後か6日に出陣したと考えられる。鹿之助は「一樹春風、 両句詩児島為政」という隊長旗を作らせ、小野路村農兵隊を引き連れて、小山村まで出陣し、さらに八王子手前 の御殿峠あたりで近藤の指令を待ったという。しかし近藤勇から鹿之助に小野路村農兵隊を解散してほしい旨の書翰が届き、 小野路村農兵隊は戦わずして帰村した。その時の近藤の書翰は小島孝(鹿之助の孫)の話では、昭和初年に調査に来た文部省 維新調査官に貸した時紛失してしまったということである。近藤がこの書翰を鹿之助に送るとき、近藤が大切にしていた大石 内蔵助の書幅も添えてきた。
 甲州勝沼戦争の後、小野路村は官軍から何のとがめもなかったが、明治維新政府を恐れて、村民は農兵の事
実をすべて隠蔽した。小野路村農兵隊の資料が非常に少なく甲陽鎮撫隊に参加したかどうかという資料もないの
はそのためであるらしい。農兵関係の道具類も、昭和21、2年頃までは手をつけることを恐れていたということで
ある。
 小野路村の農兵隊は日野宿農兵隊のように実際に戦うことは一度もなかったようである。しかし武州一揆後、世
直し層や無頼の徒から自村を防衛するために本格的に農兵隊の編成にのりだした。その農兵隊は明らかに、豪
農を中心とした上層に属する農民たちの利益を守るためのものであった。そして慶応4年(1868)に入り佐幕派
の立場に立った小野路村は、実際には甲州勝沼戦争に参戦はしなかったが、幕府側(甲陽鎮撫隊)の敗北により、
官軍の後難を恐れ農兵の事実をすべて隠蔽せざるを得なくなってしまったのである。(註18)
 以上のように、幕末維新期の小野路村豪農層が選んだ政治勢力も、やはり日野宿同様幕藩権力のそれであっ
たといえる。

(註18)小島政孝「小野路村の農兵隊」、町田市史」上巻、1496−1508頁。

左上写真・・・左は近藤勇稽古着、右は為政陣羽織 (小島資料館 絵葉書 より)

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