第2節 日野宿、小野路村の農兵隊
2.小野路村農兵隊
小島為政
(小島資料館 絵葉書 より)
小野路村については第一節で触れたが、小野路村外三四ヶ村組合村は旗本領が多く、天領(幕府直轄領)
は全組合村の15%弱にすぎない。それ故農兵隊は江川代官領のように急速に設置されず、本格的な農兵
組織の編成に取りかかったのは武州一揆の後であった。おそらく武州一揆に直面した小野路村豪農層は、
農兵隊の必要性を感じたのであろう。
武州一揆の飛報は小野路村には慶応2年(1866)6月15日朝にもたらされた。慶応2年の「小島家日記」
によると、農兵30名の非常呼集を行っている。そして翌16日に日野より加勢の旨を受け、奉公人を一揆勢
防禦のために関戸河原まで派遣しているが、小野路村農兵隊としては参加していない。17日には一揆勢が
撃退されたため農兵隊の出動を中止したものと考えられる。しかし、17日には、小野路を攻撃した際、組合
村の道案内人の音次郎が関東取締出役2名に従って、水判土(はた)村観音山にたてこもった一揆勢を攻撃
した際、千住宿の道案内人と協力して中押頭分、南畑村の喜三郎を召し捕っている。
武州一揆の1ヶ月後の7月14日に、小野路村農兵隊は銃の火入れを行い、11月3日初めての本格的な農
兵の訓練を行った。当日は小野路村の万松寺で行列の稽古を行い、夜は幹部によって農兵隊の規則や編成
についての相談がなされている。
慶応3年(1867)3月に作成された農兵編成表によると農兵は79名で、同時期に作成されたと思われる慶
応3年(1867)春の「保邑除患戮力列名及制約書」には75名となっている。若干の移動はあるが約75名と
いうことである。農兵隊の年齢構成は14歳から57歳までで、中核は16歳から35歳までであった(農兵隊全
体の約69%)。出身別に見ると、小野路村出身者が66名と全体の88%を占め、組合村の他村の農兵が非
常に少ないのが特徴である。また注目すべきは農兵がすべて姓名を持っていることであり、これは江川や地
頭農兵には特に苗字一刀を許したからだという。
次に農兵の土地所有階層を見てみると次の表のようになる。
田畑反別 | 農兵 | 村全体 | 村全体 | |
上層 | 100反以上 | 2人 | 2人 | % |
50反〜99 | 0 | 0 | ||
30〜49 | 4 | 4 | ||
15〜29 | 20 | 25 | ||
小計 | 26 | 31 | 20.1 | |
中層 | 10反〜14 | 6 | 12 | |
5〜9 | 6 | 18 | ||
3〜4 | 3 | 23 | ||
小計 | 15 | 53 | 34.4 | |
下層 | 1反〜2 | 6 | 34 | |
0,1〜0.9 | 5 | 36 | ||
なし | 1 | 0 | ||
小計 | 12 | 70 | 45.5 | |
合計 | 53 | 154 | 100 |
(「小野路村戸籍」明治3年、および「保邑除患戮力列名及制約書」慶応3年)
(註17)小島政孝「小野路村の農兵隊」から引用。これは慶応3年(1867)3月「保邑除患戮力列名及制約書」に記されている農兵の名前を戸
別に明治3年(1870)の「小野路村戸籍」と対比して作られたものである。