甲州勝沼戦争で敗戦した後、甲陽鎮撫隊内では猿橋という橋を焼き落とし、敵軍の進路を断ってもう
一度官軍と戦おうという意見が出た。そしてまさにそれは実行されんとしたのであるが、その時彦五郎
は、難工事の猿橋をひとたび焼却したら、後日土地の者たちや一般の人々がどんなにか困るであろうと
考え、その作戦に反対を唱え中止させたという。名主としての彦五郎の立場がよく現れていると思う。
 敗戦後官軍の残兵探索は激しく、彦五郎はもとより佐藤家はばらばらになって、知り合いや寺などを
頼りに隠れ住んだ。源之助は官軍に捕らえられたがまもなく釈放され、彦五郎は江戸まで忍んで行き、
江戸に引き揚げていた近藤勇、土方歳三を尋ね、一族赦免の相談をした。そして近藤は大久保一翁に、
土方は勝海舟に、朝廷寛典の処置を希願し、その結果佐藤彦五郎一家差構いなしとの達しがあり、佐藤
家一同は無事日野へ帰宅出来ることになった。彦五郎は江戸へ赦免を相談に行った帰りに小宮村粟の須
の井上家に立ち寄り、この赦免運動のことについて話したので、これを機に、井上忠左衛門は日野住民
を始め助合(すけごう)組合諸村の名主に謀り、佐藤家赦免の歎願書に連印して大本営に呈出している。
豪農層の地域的な連帯感の強さがうかがえる。
 無事許された後、彦五郎始め村役人他有志の者50名は、以後「朝廷に忠義を尽くし」「御公用を精
勤」することなどを約束し合っている。佐幕派に組みしていた日野宿も、ここにおいて官軍に従順の意
を表したのである。
 しかし、かなり後のことになるが、官軍に従順を誓ったなずの源之助が、明治15年に筆禍事件をお
こし3年間投獄されるという事件がおこった。原因は、佐藤家伝薬の虚労散薬より思いついて、その広
告文の形式を借りて政治、社会を諷刺したものであったということである。私はこの筆禍事件の中に、
明治になってからの日野の豪農層の維新政府(それは彼らにとっては薩長軍=官賊の延長であったので
あろうが)に対する意識というものが感じられてならない。
 今まで見てきたように、日野宿は名主佐藤彦五郎の指導の下に日野宿農兵隊を組織し、領主権力と結び つき、世直し層に敢然と立ち向かった。そして後には佐幕派の立場に立って春日隊として甲州勝沼戦争に 参加している。しかし一揆鎮圧とは異なり、本格的な戦争においては農兵隊としての限界を示さずにはお られなかった。なぜなら、農兵隊は軍隊ではなく、豪農層の自衛手段に他ならなかったからである。
 以上、日野宿農兵隊についてみてきたが、幕末維新期の日野宿豪農層が選んだ政治勢力は、まさに幕藩
権力そのものであった。

左上写真・・・佐藤彦五郎使用の大刀 「新選組写真集」新人物往来社より

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