新選組 <12>
 

第2章 新選組の背景 第2節 日野宿、小野路村の農兵隊    1.日野宿農兵隊             [その2]                

日野宿名主・佐藤彦五郎 (「新選組写真集」新人物往来社 より)  
 慶応2年(1866)6月15日、一揆勢が小宮村地先の多摩川北岸に現れたという飛報が日野宿にも
たらされた。その時ちょうど江川代官手附役増山蔵六が日野宿に出張していたので増山と謀り、農兵全員
60名と撃剣組20余名を増山と彦五郎の指揮の下に多摩川築地河原へ派遣した。そこで駒木野御関所附
きの番兵とその他の剣槍組と合流し、一揆勢を撃退した。翌日日野宿農兵隊は隊列を整えて八王子宿に入
っているが、武州一揆勢は八王子を目的地にしていたため、八王子では全町こぞっての大歓迎を受けてお
り、また日野宿にもどってからも、佐藤家剣道場で祝宴を開き、一揆勢を撃退したときの功名談に花を咲
かせたということである。幕府からも賞として白銀3枚と彦五郎忰代までの名字御免を仰せ付けられてい
る。
 一揆後佐藤彦五郎が小野路村の小島鹿之助と橋本道助に一揆打ち払いに関する書簡を送っているが、そ
れによると、生捕人は計44人でその中には名主・組頭など肩書が有る者もあり、また斬り殺した人数は
13人となっている。
 この武州一揆鎮圧を経験した彦五郎等は、銃砲練兵の必要をますます実感し、そのため息子の源之助と
隣家の佐藤隆之介を相州浦賀と金沢に派遣し、オランダ式調練方を習得させている。武州一揆という大き
な世直し一揆を目の当たりに見た日野宿の豪農層たちには、さらに世直し勢への対決の姿勢を強化したの
である。
 慶応4年(1868)3月3日、近藤勇(大久保大和と変名)の率いる甲陽鎮撫隊は日野宿に到着した。
目的は地理的に険要である上、兵糧にも恵まれた甲府城を占拠し、東海・東山両道を東進してくる征討軍
を阻止しようというものであった。
 近藤勇は若年寄格、土方歳三(内藤隼人と変名)は寄合席格となり、故郷に錦を飾った近藤らに、日野
宿の旧門弟たちは甲州への従軍を願い出た。そのため近藤や彦五郎は無謀を説いてやめるように説得した。
しかし容易に聞かぬ熱心さに負けて、彦五郎は30名余で輜重(しちょう)隊として春日隊を編成し、い
っさいの兵糧をうけもった、ということになっている。しかし実際には春日隊はすでに近藤が日野へ来る
前に出来ていたというのが真実であるらしい。これは佐藤c氏に直接伺ったことであるが、兵糧方という
のは1日や2日で準備を完了することは不可能であるし、近藤から前もって彦五郎の方にその旨を連絡し
ていたらしい。「籬陰史話」で急に農民が願い出たためやむをえなく春日隊を編成したと書いているのは、
甲州勝沼戦争敗戦後、一家離散の状態にまで追い込まれた佐藤家が、官軍をはばかってそのように記述し
ているのであろう、ということである。
 甲州勝沼戦争では春日隊は3月6日、土州勢を相手にかなり活躍をしている。隊長である彦五郎(春日
盛と変名)が「敷いていた赤毛布を棹に結んで、これを振り回し、声を涸らしてて号令叱咤、一歩も退か
ずに頑張っていた。」ということであるが、戦況はおもわしくなく結局退却せざるをえなくなった。春日
隊は日野宿農兵隊を母体とした有志約30名で編成されたと考えられる一種の農兵隊であるが、一揆や無
頼の徒から自村=豪農層を守るために編成されていた農兵隊が正規の軍隊と戦っても、惨敗するより他に
道はなかったのである。

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