ところで農兵取立ての許可がおり、江川代官領の組合村では急速に農兵が設置されていった。彦五郎 も率先して農兵隊組織に尽力し、文久3年(1863)11月には「日野宿農兵取立書上」を上申して いる。そこで私はこの項において、日野宿農兵隊の武州一揆における活躍と甲州勝沼戦争で春日隊の奮 戦を中心に、武州多摩郡日野宿の豪農、自作上層農民のあり方をさぐることにする。その場合、佐藤仁 執筆の「籬蔭史話」中編(佐藤c「聞き書き新選組」所収)にそってみていきたいと思う。 初めに「籬蔭史話」とはどのような本であるかということを述べておきたい。これの執筆者は佐藤仁 で、佐藤彦五郎の孫である。上、中、下三編から成り、上編は幕末より以前を、中編は幕末維新期を中 心に、下編は明治以降を、という構成によって書かれている。中編は祖父俊正(彦五郎)及び父俊宣 (源之助)から直接聞いた話と、俊宣執筆の「備忘記」を参考に書いている。
日野宿農兵隊は始め30名であったが、後に次第に人数が増加して60名になっている。年齢は15 歳以上45歳以下を基準としているようで、練習は30日に1回と定めている。練習場所は実習地とし て多摩川堤防内の芝原を使い、習練所(事務所)には普門寺と宝泉寺の二個寺をあてている。幸いにも 日野宿には八王子千人同心が5名在住しているので、彼らに指導を請うて、ある程度できるようになっ たら教示役方に出役を願って教諭を受ける計画を立てている。実際の農兵隊指揮者は佐藤源之助と佐藤 隆之介で、オランダ式操銃練兵術(銃はゲベル銃)は江川代官から教官3名が派遣されている。 次に農兵隊のための経費の問題を見てみる。まず稽古着などは銘々で仕度する事になっている。鉄砲 や付属品等は12月2日付(文久3年のものと思われる。)の「日野宿見込」を見る限りでは、貸し渡 しを希望しているようである。調練入費については宿方の負担としており、身元のものからの献金が 12月2日付「日野宿見込」では150両となっている。そして「百姓が難儀しないように」と付け加 えてあり、農民の生活が圧迫されないようにとの配慮が見られる。またこれより先に出された文久3年 11月付の「日野宿農兵取立方書上」にも「玉薬カン等の代銀」の出し方について、凶作の時の但書が あり、豪農・村役人の、農民たち特に下層農民に対する対応の仕方がよく表れている。
左上写真・・・「備忘記」「新選組写真集」新人物往来社より
右上写真・・・明治初年の日野宿 新選組写真集」新人物往来社より