新選組 <11>
 

第2章 新選組の背景 第2節 日野宿、小野路村の農兵隊    1.日野宿農兵隊             [その1]                

日野宿名主・佐藤彦五郎 (「新選組写真集」新人物往来社 より)  
 日野宿の農兵隊を見ていく前に、農兵隊の成立過程を簡単に触れてみたいと思う。
 伊豆韮山の代官江川太郎左衛門英龍は、武州・相州・豆州・駿州・甲州の5ヶ国26万石そ支配してい
たが、嘉永2年(1849)5月、英龍は支配地の農民を取り立てて下田警備に当たることを幕府に献策
した。それは、英龍が、外国船の日本近海出没によって、我が国の砲術の劣勢と永年の鎖国のための大艦
の不所持による、外国の近代的軍備に対する防衛の劣勢を痛感したためであった。英龍は嘉永6年
(1853)ペリーの来航に際し、再び幕府に農兵編成の急務を進言した。限りある武士だけの兵力によ
る海防では不十分であると考えたからである。しかし幕府は、兵農分離は徳川開府以来の祖法であり、農
兵取り立ては封建体制の原理に矛盾するという理由で許可しなかった。英龍の子江川太郎左衛門英敏は、
父の遺志を受け継いで、幕府に海防強化のため農兵取立てを建議した。しかしこの時も幕府はそれを許可
しなかった。
 ところが第1節で触れたように、次第に農村、特に関東地方では無頼の徒の横行等で不穏な情勢となっ
てきたため、もはや治安維持と体制の補強のためには農兵取立てを行わざるをえなくなった。そこで文久
3年(1863)11月15日、英龍の孫、江川太郎左衛門英武の代に至り、ようやく関東、東海、甲信
地方の代官支配地に農兵取立ての許可がおりたのである。(註15)
 武州多摩郡日野宿も江川太郎左衛門の支配地であった。日野寄場名主佐藤彦五郎(俊正)は日野宿
2200石を管理し、江川代官手附役柏木総蔵、手代三浦剛蔵等を介して公用に仕えた。また彦五郎は天
然理心流の免許皆伝で近藤勇とは兄弟弟子にあたり、近藤勇・土方歳三らが上洛した後は、多摩及び相州・
埼玉方面にかけての剣術師範は彦五郎に託せられ、各地の道場を巡廻して稽古に励んだ。勿論彦五郎の邸
内にも道場はあり、近郷近在の有志が集まってきて彦五郎の指南の下に競って稽古した。
 彦五郎は「生来克己心強く、義侠の風にあつかったので、よく村民を愛撫善導し、村治を計るに孜々汲
々たるものがあった。」ということで、文久2年(1862)に 日野にコレラ病が蔓延し、死者100
余人を出したとき、彦五郎は私財米穀をなげうって、かつ薬剤を施与し、さらに家に蔵してあった多数の
大般若経巻を疫病除けの呪いとして幾巻も貸し出した。この行為を賞して、将軍家より前後2回白銀を給
わっている。(註16)
 前述したとおり彦五郎は近藤勇と義兄弟の契りを結んでおり、また妻おのぶは土方歳三の姉であるため
土方家とも親類であり、そのようなことから、彦五郎は新選組の物質的、精神的な大きな後援者の一人で
あった。

(註13)「町田市史」上巻、1496頁。

(註14)佐藤c「聞き書き新選組」50−55頁。

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