また日野宿名主佐藤彦五郎(俊正)から四代目(彦五郎の曾孫)にあたる佐藤c氏は、多摩地方の当時 の農民の幕府や天朝に対する考え方について次のようなことを言っておられた。 多摩地方は昔から天領であり年貢が低かったこともあって、幕府は滅ぼしたくなく助けたい。しかし 勿論天朝には歯向かうつもりは全くない。そういう二つの気持ちからその解決策として公武合体論を 支持することになり、近藤勇なども公武合体論をかなり強く持っていたはずである。また戊辰戦争の 時、彼らは佐幕派に立って官軍と戦っているが、彼らには官軍と戦ったという気持ちは全くなく、あ くまでも「薩摩・長州対幕府」の戦いであったとの認識に立っている。だから多摩地方の人々は官軍 とはいわず、「薩長軍」あるいは「官賊」といった。(註13) これなども「徳川恩顧」の意識のあらわれではないだろうか。 もう一つ、豪農たちが学んだ学問の影響も見逃せない。小島鹿之助をはじめ、現町田市域に在住してい た豪農たちに教養を与えた文化人の中で、もっとも彼らに大きな影響を与えたのは大沼枕山であった。19 世紀中頃に鹿之助が門人になった後、次々と他の村落指導者も枕山門下に入った。枕山は熱烈な佐幕思想 の持ち主で、このことが町田市域にあった天領意識をさらに強める原因ともなった。(註14) 多摩郡の豪農層は佐幕的心情によって行動した反面、世直し一揆や打壊しをもって迫る貧農たちに対し ては激しい敵意を燃やした。そのことは、武州多摩郡の農兵隊の、武州一揆鎮圧における活躍に如実にあ らわれている。そこで第2節で、日野宿と小野路村の農兵隊を見ていき、それによって、武州多摩郡の豪 農層たちの意識をもう少し深く考えてみることにしたい。
日野宿に住む近藤周助の門人一統が額を 奉納した日野・八坂神社 |
八坂神社の献額。井上源三郎・沖田惣次郎 (沖田総司)・島崎勇(近藤勇)の名が見える。 |
(註13)昭和51年(1976)5月15日の聞き取り。なお天保14年(1843)頃の小野路村の年貢率は4割7分1厘。
(註14)町田市史」上巻、1416−1417頁。