新選組 <10>
 

第2章 新選組の背景 第一節 「世直しの状況」下における関東豪農層の対応のしかた             [その3]      

土方歳三 (「新選組写真集」新人物往来社 より)  
 次に武州多摩郡の特殊性というものを、少し視点を変えて見ていくことにする。北島正元氏は「徳川恩
顧ということ」(註9)という論文で武州多摩郡の農民について触れている。この論文を見ていきながら、
多摩郡の特殊性を考えていきたい。
 北島氏は、天領や旗本領の農民に「徳川恩顧」の意識が浸透していたことをあげておられる。
 天領や旗本領の農民たちは常に「公儀の御百姓」という言葉を繰り返しており、その中には自分たちは
公儀=将軍の御百姓であるという誇りがひそんでいた。そしてその誇りは、領主の圧制に対する抵抗のス
ローガンとされる半面、私領民に対する天領民という優越感を含んでいた。
 関東はほとんど天領、旗本領、譜代大名の領地で占められていたが、その中でも江戸を擁する武蔵国は
半分以上が天領で、残りが旗本領及び幕府と関係の深い寺社領で占められていた。天領や旗本領は支配役
人の数が少なく、しかもその入り組み方は複雑である。江戸後期になると関東の村々からはきだされた潰
百姓や食い詰め者の中で無頼の群に身を投じた者たちが関東一円に横行し、その上幕府には「勤王」「倒
幕」に名を借りた無宿人や無頼の徒が出没する。そのような情勢の中で農民が財産と身を守るためには、
農民自らが自衛手段として剣術を始めざるを得なくなった。多摩郡もその例に漏れなかった。多摩の豪農
たちは天然理心流をつかい、万延元年(1860)には多摩地方の道場は3、40ヶ所もあったといわれ、
八王子から府中、日野、上石原にかけて門人は300人に達したといわれる。その豪農・自作上層農民の
子弟の内から後の新選組の幹部が生まれてくるのである。また幕府も文化2年(1805)治安維持のた
め「関東取締出役」を設け、その末端機関として組合村を作らせ、警察の任務に当たらせた。そうなると
名主クラスの者たちは剣術が使えるということが必要条件となって、名主層は盛んに剣術を習うようにな
るのである。小野路村の小島家、日野宿の佐藤家などは道場を持っており、近藤周助(勇の義父)や近藤
勇、土方歳三、沖田総司ら近藤一門が出稽古に通い、近在の豪農、自作上層農民が競って練習に通った。
(註10)幕府が町人百姓が剣術を習うことを禁止しているにもかかわらず、これほど多摩郡で天然理心流が
盛んであったのは不思議なほどである。
 このような土壌に近藤勇、土方歳三等は生まれ育ち、そして彼らが中心となって新選組は結成された。
北島氏は、池田屋騒動をはじめとした尊王攘夷派志士の弾圧に新選組が狂奔する背景には、多摩の豪農、
村役人としての階級的意識がはたらいており、それは、「幕府に忠節を尽くすことは天領の村落支配層と
しての伝統的な義務」という考え方であったと述べておられる。そしてここに彼らの「徳川恩顧」の意識
が読みとれるのである。
 少し後のことになるが、多摩地方の農民の「徳川恩顧」の意識を表す一つの例がある。それは武州多摩
郡森野村で行われた農民たちの旗本須藤一家への生活扶助である。明治維新により没落した森野村の旧領
主である須藤家は、武士であるため開畑は無理なので、村役人をはじめその他身分に応じて現米かあるい
は現金を扶持米、野菜代として須藤家のために拠出する事を決定した。それで明治2年(1869)正月
17日、森野村の70%の家で扶持米、野菜代を拠出した。ところが森野村は非常に階層分化が進んだ村
であり、村落内の70%余りは農業によってのみでは全く生活できない状態であった。(註11)そのような
状態でありながら、農民たちは須藤家のために扶持米、野菜代を出しているのである。農民たちは長い間
須藤家に搾取されてきたのであるから、領主でなくなった今、いくら村役人の強請があったにせよ、その
日の生活にも困っている貧農たちを含め村の70%もの人たちが、旧領主の救済に立ち上がるなど、常識
では考えられない。しかし森野村が徳川入府以来の須藤家の単給支配であることを考えると、この一見不
可解な農民たちの行動は、森野村村民の旧領主の没落を痛む、もっとも素朴な感情以外の何ものでもない
のではないだろうか。まさに彼らの中には、「徳川恩顧」の意識が強く根をはっていたのである。(註12)

(註9)「歴史と人物」昭和50年6月号所収。

(註10)「多摩の百年」上巻、58−61頁。小島政孝「近藤勇」(「新選組隊士列伝」所収)61−68頁。

(註11)「町田市史」上巻、1423−1430頁。

(註12)「町田市史」下巻。

<2>

前のページに戻る(目次) 次のページに進む(新選組)