第1節 近藤勇の政治思想(1)
2、近藤勇の政治目的
<建白書・書翰などを中心に>
土方歳三の刀剣 (所有者のご好意により、その写真を掲載させて頂きました。) 非常に軽く、実戦向きの刀剣であることが解ります。ところでこの時期には、幕府は内に長州問題をかかえ、外には兵庫開講問題をかかえていた。
慶応元年(1865)6月19日、英・仏・蘭三国の軍艦9隻が兵庫港にやってきて、
開港を幕府に迫った。三国との交渉にあたったのは、老中の阿部正外と松前崇広であった。
三国は「兵庫開港について明日中に許否の確答をしなかったら、闕下に推参するか、もしくは
大坂城に行き大君に会って談判する。」と主張し、翻心させることは不可能な状態であると判断した
阿部、松前両老中は、やむをえず開港を許すことに決めた。
幕府(老中)のこの決定に、将軍家茂をはじめ慶喜、容保等は聖恩に背く罪は逃れないと嘆息するのみであった。
しかし慶喜は英仏等の腹を探らせるために、密かに大坂町奉行井上元七郎に内意を含め、阿部の使いと称して
三国の使者に会見させた。そして、「開港のことは皇帝陛下の裁可を得なければ条約は締結できない。
大君と条約を結んでも、それは私の約束にすぎない。
皇帝陛下の裁許をうけるには10日は要する。もし真正の条約を欲するならしばらく待て。」
と三国の使臣に話させたところ、もし10日で決定せねばなお4、5日延ばしてもかまわないとの
返事があった。その井上の報告により、幕府の評議は一変し、明日将軍が上洛して三国要求の顛末を奏上し、
勅裁を仰ぐことに決定した。その結果、阿部、松前の二老中は責任を問われて罷免された。(註16)
この事件は近藤の耳にも入った。阿部、松前二老中の開港の処置を聞いて、自らを勤王攘夷の有志と規定する近藤は、
憤りを押さえることができなかったのであろう。慶応元年(1865)10月29日の書翰で、
「偖九月下旬より廟堂之大変動言語筆墨紙難尽大事件出来」という書き出しで、三国が兵庫開港を迫り、
二老中がそれを許可することにしたが、井上元七郎が交渉したら二老中が言う様ではなかった、
ということを詳しく報告している。そして最後に自分の感想として、
「是全朝幕を欺き、此機ニ乗し開港致可申之趣意を以、両侯之策と被存候」と
激しい口調で非難している。勅許を得ないで、幕府が勝手に開港を許可すれば、天譴を蒙ることは目にみえており、
そうなれば諸藩は幕府に背き、国は分裂し、遂には内乱にもなりかねない。
その機に乗じて外国が日本を植民地化することも十分考えられる。これは近藤の最も恐れるところであった。
また公武合体に尽力し、その実績をあげてきた矢先であり、もし勝手に兵庫開港を許可すれば、朝廷と幕府の間の溝は
決定的となり、もはや公武合体の道は絶えてしまう。公武合体派の近藤にとっては、この事件は大変深刻な問題であったことは
間違いないであろう。それ故、あのような強い口調で二老中を非難したのであると考えられる。
(註16)山川浩「京都守護職始末」2、170−175頁。