慶応3年(1867)は新選組にとっても大きな転換期であった。

6月10日正式に新選組は幕臣となったのである。しかも近藤は「見廻組与頭格」と御目見得以上の格式を

与えられた。そして6月14日、近藤は親藩会議に出席した。その席上で近藤は、四侯(島津久光、伊達宗城、

山内豊重、松平慶永)の建白書を激しく非難している。(註17)その近藤も主張を見る前に

四侯の建白書はどのようなものであるのかを簡単に見てみたい。

 四侯は二度にわたり建白書を呈出している。一度目は5月23日幕府に呈出したのもで、主な内容は長州問題を先に討議し、

その後兵庫開港問題を討議すべきである、というものである。しかし将軍慶喜は四侯の主張を退け、

二問題併行の奏聞をしたので、四侯は26日に再び建白書を朝廷に呈出している。

それは次のようなものである。

  兵庫開港、長防処置の一件は、当時容易ならざる御大事と存知奉り候。全体幕府の長防再討の妄挙は無名の師を動かし、

  兵威をもって圧倒すべき心づもりに候ところ、全く奏功に至らず、天下の騒乱を引き出し候次第ゆえ、

  各藩人離反して、物議相起り候時宜に御座候。ついては、即今、国基を立てさせられ候急務は、公明正大の御処置をもって

  天下にのぞませられず候わでは、一円治り相付かず候。

  長防の儀は、大膳父子の官位旧に戻し、平常の御沙汰に相成り、幕府反正の実跡相立て候儀第一と相心得申し候間、

  断然明白の実跡相顕れ候うえ、天下の人心はじめて安堵仕るべく候。

  第二に、兵庫開港は、時勢相当の処置を立てさせられ、順序を得申すべくかねて勘考仕り候。(註18)

  (後略)(太字引用者)

もしこの建白書が採用されると、幕府と長州の立場が逆転してしまう。こうした情況の中で、6月14日に親藩会議が

開かれたのである。この席上近藤は、「親藩たる以上は、たとえ幕府に過失があるともこれを庇護すべきだのに、

外藩に雷同するがごときは不可解である。」と述べ、暗に四侯のひとり越前藩の態度を攻撃したという。(註19)

この会議での近藤の発言の内容は、摂政二条斉昭えhの建白書によって詳しく知ることができる。

長いので、重要だと思われるところだけ抜き取ると、「乍恐天幕御権威日々衰頽、侯迫駕馭之道御取失ひ天下民心離反致、

各国四分五裂之勢と相成、従(ママ)横割拠之略を抱」「此上諸藩之内には自然外夷と私に

親睦を通し候様相成候はゝ、皇国未曾有之御失体万歳之遺憾に御座候」「返々も右之趣意御採用不遊、

都而真実御委任相成候はゝ誠に公武合体と相成り、速に万事御奏功に至可申奉存候」(註20)

慶応3年(1867)6月29日、近藤は、四侯建白書不採用を主張する建白書を摂政二条斉敬に奉ったことの報告を、

佐藤彦五郎、小島鹿之助、粕谷大作、橋本道之助にしている。

慶応3年(1867)段階になると、近藤は親藩会議に出席をし、しかも摂政に建白書を呈出するまでになっていた。

それも摂政と直々に会い、詳細に自分の意見を説明しているのである。もはやこの時期には、近藤の一挙一動が

朝廷からも幕府からも注目されるようになっていたことがわかる。

(註17)親藩会議及び四侯建白書については第一章第二節二、を参照。

(註18)前出、「京都守護職始末」2、237−239頁。

(註19)前出、「新撰組史録」202頁。

(註20)同書、203−204頁。

[次回に続く]

<3>