〜淡い日差しに〜 吉備路を訪ねて

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★旅のスタートは岡山
中学生の頃は良かった。浜松から東海道線の鈍行で静岡まで行っただけで旅の気分を味わえた。20数年を経た現在ではそうはいかない。浜松からこだまに乗って米原へ。 そこでキップを買いなおして新快速に乗車。新大阪で再度新幹線に乗り換えて「ひかりレールスター」で48分、岡山駅のホームに降り立ったところでようやく旅気分が盛り上が ってくる。年々旅へのアプローチが伸びてしまうが、逆に自由になる時間は少なくなっている。いかに現地での時間を濃密なものにするか… それがこの頃の旅の課題である。
今回の旅は、以前から町歩きをしてみたかった備中高梁と、秀吉の水攻めで有名な備中高松城を訪ねるつもりである。広大な岡山駅の敷地を南から北へ縦断して、ようやく吉備線のホームに着いた。10:54発の総社行きディーゼルカーはローカルムード漂う単行のワンマンカーだった。土曜日の午前で学校は休みのはずなのに、なぜか制服姿の高校生が目立ち車内は満員。それにしても一部の高校生のマナーの悪さには眉をひそめてしまう。出口付近に仲間とかたまり通路に座り込んでしまうため、特にこのようなワンマンカーだと下車客の流れを知らぬ間に妨害してしまう。幼い頃からクルマでしか出掛けたことの無い田舎の子供たちは、高校生になって初めて列車に乗るため誰からも列車のマナーを教えられることがない。それでこうなってしまうのだろう…
ディーゼルカーに揺られて18分。巨大な鳥居を進行方向右側に見ながら列車は備中高松駅に到着した。さぁここからは自分の足が移動手段。幸いなことに天気もいい。

旅は始まりはひかりレールスター

伸びやかな高松城址公園にて筆者

水攻めの想像図
★高松城址公園
駅から北へ10分も歩かないうちに高松城址公園に着いた。当地に来る前の私の「水攻め」に対する認識は以下のとおりであった。三方を山に囲まれた城の周りに川が流れていて、その川を堰きとめる事によって、あたかもダムの底に消えていった山村のように城ごと水没させてしまう…というイメージを持っていた。当然、山深い谷間に城があると思っていた。しかし当地に着いてみたら一面の田園地帯。実は低湿地に築かれた城を落とすため、人為的に洪水を起こし、城を陸の孤島にして兵糧攻めしようというのが「水攻め」の実際であった。百聞は一見に如かずというが、現地を訪れてみなければ誤った印象のまま過ごしてしまっていただろう。
【秀吉の「水攻め」】
天正10年(1582年)、織田信長から中国攻略の命を受けた羽柴秀吉は、岡山の毛利勢の城を次々と落とし備中高松城の攻略にかかった。高松城は深田や沼に囲まれた平城で、人馬の進み難い難攻不落の要害であった。そこで秀吉は参謀黒田官兵衛の策を取り入れ、3000bに及ぶ堤防を12日間で築きあげた。梅雨で増水した足守川の水を流れを堤の中に流し込み、高松城の周りはあたかも湖のようになり城は孤立した。
その作戦のさなか、本能寺で信長が明智光秀に討たれるという急報を聞いた秀吉は、毛利方の軍師・安国寺恵瓊を招き講和を図った。条件は高松城主・清水宗治の切腹のみで、領地領民は安堵するといものであった。
宗治はこの条件をのみ切腹、秀吉は急いで兵を畳んで京に戻り(中国大返し)光秀を山崎で討った。

高松城主・清水宗治の辞世の歌碑

高松城の本丸の跡

現存する唯一の水攻めの築堤跡「蛙ケ鼻」


★高松城水攻め史跡公園
青空の下、伸びやかな城跡の公園で小一時間を過ごし、満足して次の場所に歩を進めた。15分くらい歩いて、秀吉が築いた堤防で唯一現存する蛙ケ鼻に到着した。こちらも整備されて「高松城水攻め史跡公園」という名前が付いていた。およそ3`に渡って堤防が築かれたとのことだが、残っているのは20bほどである(右の画像参照)
戦国時代の城跡を歩いていると時折違和感を持つことがある。それは世間一般の捉え方とは逆の見方で説明されていることが多いことである。例えば、ここ備中高松城は世にも稀な「水攻め」によって落とされた城という印象を持ちがちだが、現地では城主・清水宗治が自らの命と引き換えに領地・領民を救ったという英雄伝で説明されている。考えてみれば当たり前のことで、中央からみれば全国制覇へのひとつのエピソードだが、その地方にとってみれば「お殿様が自分のご先祖さまを助けた。名君だった。」ということになるからである。城址公園の中に設けられた資料館の展示も宗治中心だったし、説明してくれた初老の文芸員さんも秀吉に否定的であった。清水宗治の辞世の歌碑「浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」を見たら、私も「こういう別の見方があってもいいな」と思った。
高松城址公園の周りは一面の田園風景


高松城水攻め史跡公園にて(後ろは築堤)

僅かに残る蛙ケ鼻の築堤の跡
先ほどの備中高松城には観光バスが止まり、駐車場にはたくさんの自家用車も止まっていて、一大観光地の様相を呈していたが、こちらの公園を訪れているのは私一人だけ。こちらの史跡は秀吉の築いたものであるので、中央の視点から見れば築堤の方がむしろ重要な感じもするが、先ほども記したように地元では圧倒的に清水宗治が英雄なのである。さて、こちらの公園には城跡にはなかった詳細な水攻めの攻防図が掲げられていた(左の画像参照)。この地図によると『湖』の面積は思いのほか広いことが分かる。城の周りを湖にされた宗治はさぞや心細かったに違いない。
ここでもゆっくりと時間を過ごして、水攻めのことをすっかり分かったような気になって駅に戻ることにした。途中で、列車の中で見かけた大きな鳥居をくぐった(右の画像参照)。なんでも日本一の大きさなのだそうだが、浜岡の国道150号線の北側にある大鳥居も「日本一の大きさ」とうたっていたような気がする。どちらが本当の日本一かは双方を見ている私にも不明であるが、とにかく立派な鳥居だった。15分ほど歩いて駅に到着。ホームで万歩計を確認すると、既に朝から1万歩以上歩いていた。太陽は真上にあり気温も30度近い。すっかり夏の旅の様相である。シャツは汗でぐっしょりだった。



「青いスタスィオン」を彷彿とさせる風景
★青いスタスィオン
その昔、おニャン子クラブが一世を風靡していたころ「青いスタスィオン」という曲が流行った。おニャン子クラブからいち早くソロとして独立した河合その子の曲なのだが、その歌詞は鉄道ファンを泣かせるフレーズを含んでいる。著作権の関係で歌詞をダイレクトに載せることはできないが、昼下がりの備中高松駅のホームには、「青いスタスィオン」を彷彿とさせる情景が広がっていた。梅雨目前に控えたの淡い日差し、銀色に光るレール、2両編成のディーゼルカーがゆっくりとホームに進入してくる。直立して列車に敬礼を送る駅員さん…等々。こういう風景に触れるたび、私は「あぁ旅に出て良かったなぁ〜」と思うのである。
ホームに入ってきた、その12:54発の総社行き鈍行列車に乗り、総社で伯備線の電車に乗り換え、次の目的地である備中高梁には13:40に到着した。


★高梁にて@〜蓄音機の館
旅に出る前に備中高梁について、ちょっとだけネットで調べたのだが、「ここは外せないな」と感じた施設は「蓄音機の館」だった。高梁駅に着いたらまずここに行こうと思っていた。しかし電車の中で居眠りをして、寝ぼけまなこで駅頭に放り出されてしまったので、駅前で方角を確認することなく歩き出してしまった。「備中松山城」の看板をたよりに歩いたら、なんとなく町並み保存地区みたいなところに出たので事なきを得たが、かなり遠回りをしてしまったようだ。

左から蝋管式、ラッパ型と骨董品が並ぶ
蓄音機の館は、高梁市内の三大博物館(いずれも入場料300円)のひとつ商家資料館の敷地内にあるが、ここ自体の入場は無料で喫茶店を兼ねている。30度前後の陽気の中、30分以上歩いて到着したので汗びっしょりである。空いているテーブルに座り、まずはアイスコーヒーを注文。心から「うまい!」と思った。
館内(店内?)をじっくり観察すると、まず目を引いたのはエジソンが発明した当時のままの蝋管式の蓄音機と、その隣の大きなラッパが付いた蓄音機。蝋管式のやつはレコードではなく、円柱形のパイプの表面に溝が彫ってあって、そこを針が通過して音がなるという仕組みで、実物を見たのは初めてである。大きなラッパのついたやつはビクターのロゴマークそのもので、その奥には犬の置物が飾ってあってご愛嬌である。「これはSP盤しかかからないな」と思って館内を見回すと、背面の壁にはぎっしりとSP盤が並べてあり圧巻だった。

「蓄音機の館」入り口にて筆者
店に入って暫くしてから気づいた「リクエストOK」の貼り紙の文句に誘われて、お気に入りのものを探し始めた。LPの在庫も半端なものではない。主に70年代くらいのアイドルやフォークソングものや、洋楽ではビートルズあたりのものが多かった。その中で私はわりあい新しめと思われる1枚を選んだ。ポール・マッカートニーのLPだが、「ひとりぼっちのロンリーナイト(リミックス版を含む)」が収録されていたので1985年以降のリリースだろう。店のお母さんがB面からかけてくれたので、A面1曲目に収録されているオリジナルバージョンの「ひとりぼっちのロンリーナイト」を聴くまでは・・・とコーヒー1杯で粘った。そのA面1曲目をしおに私は店を出て、次の目的地・備中松山城へと向かった。


★高梁にてA〜備中松山城
備中松山城は、天守の現存する山城としては日本一の高さを誇る(国指定重要文化財)。標高430bの小松山の山頂に築かれた城で、高梁市街の標高は50bほどだから標高差は約380bになる。これが「日本一の高さ」といわれる所以であろう。
実は、私は松山城に登って本丸の案内書きを見るまでそのことを知らなかったので、麓の「城まで3`」の表示を見て「楽勝!」と思い、遊歩道を登っていった。しかし、行けども行けども森の中の上り坂。ついには息が切れ、乳酸もたまって中腹でストップ。時計を見たら帰りの電車まで2時間を切っている。戻るに戻れず、歩いては休みを5〜6回繰り返し、1時間弱を要してようやく本丸にたどり着いた。最後には雷鳴が轟き、にわか雨も降り出すという難行苦行であった。

難行苦行を乗り越えてグッタリとする筆者

天守閣から城の敷地と高梁市街を望む
松山城に登ってみれば、高梁市街をはるか眼下に見下ろす絶景の地で、今までの苦労も一気に吹き飛んだ。それにしても、よくこんな山の中に城を建てたものである。件の案内書きによると、「あまりに山奥すぎて、明治維新の時に気付かれずに廃城を免れて、そのままほったらかしにされた」というようなことが書いてあった。お昼前に訪れた備中高松城は水面からの高さが僅か4bだったことを思うと、まさに対照的な2つの城を時を置かずに訪ねたことになる。
帰りの電車の時間まで1時間を切り、山頂でぼやぼやしてはいられない。帰りはマイカーの観光客と一緒に中腹の駐車場までシャトルバスに乗り、思いのほか早く市街地に戻ってきた。後から思えば、上りにバスを使い、下りを歩けばこんなにスパルタンな行程にならずに済んだ…。


★伯備線のスラローマー
備中松山城を往復したダメージは予想以上に大きく、備中高梁駅16:57発特急「やくも19号」の指定席に腰を下ろした後も、しばらくの間は汗が噴き出し続けた。さて、今回の旅 で「鉄道ファン」としての一番の目的は、この特急やくもに乗り、久しぶりに自然振り子電車の乗り味を楽しむことにある。1970年代初頭に特急「しなの」のスピードアップを目的に導入された381系特急電車は、カーブでスピードを落とさずに走るために「振り子」機能を導入した。「振り子」機能とは、カーブで車体を内側に傾けて遠心力を軽減するため、乗り心地を損なうことなくカーブを高速で走れるという優れモノである。しかし車体がコロの上に乗っているため、カーブ通過後の「揺り戻し」が避けれれず、乗客から「電車に酔う」などの苦情が相次いだ。そのため、現在では揺り戻しを防ぐ「制御つき振り子」列車が一般的となり、JR各社で活躍している。今、私が乗っている「やくも」は初期の制御機能のない振り子電車だが、コアなファンからは不自然に揺れる乗り味が振り子電車らしくてよいという意見もある(私もその一人だが)。

特急やくも19号が備中高梁駅に入線
備中高梁を出た頃には、近くの山に雷が落ちるなど大荒れの天気だったが、北上するにつれて青空が広がってきた。岡山と鳥取の県境の町・新見到着は17時26分。真夏のような強烈な西日が差し、例によってこの旅の「トワイライト・セクション」の様相を帯びてきた。ビール片手に聴き入ったテープは「梅雨の向こう側」(曲目参照)。このテープは1993年7月に東北を旅した時(詳細はこちら)に持っていった。2曲目のエリック・クラプトンの「ホーリー・マザー」は陸羽東線・古川付近の田園に映る梅雨空に完璧にマッチして、今でもその情景を思い浮かべるほどである。以来、梅雨時の旅にはこのテープにお供をさせているのだが、今回も豪快に走る振り子電車の車窓によく似合っていた。
生山、根雨といった小駅にも丹念に停車していく「普通の(スーパーでない)」やくも19号だが、時刻表では通過扱いとなっている駅でも、いわゆる運転停車を繰り返していく。伯備線が単線であるため、対向列車との行き違いのため避けられない停車である。ただ、今日はその対向列車が遅れがちで、その待ち合わせのために根雨を6分遅れて発車した。

鬼太郎列車の境線の正面は「目玉親父」
米子で8分の乗り継ぎで時間で、空港行きのリムジンバスに乗車しようとしていた私は「6分少々遅れて根雨を発車しました」という車内放送に焦りを感じずにはいられなかった。根雨〜米子間は約32`。その区間を所定では24分かかって表定速度は80`。最高速度120`の381系特急電車では、表定速度を10`上げるのも困難だろう(遅れの挽回は3分弱)。ということは、ほぼ挽回は不可能な遅れである。それでも「やくも」は遅れを取り戻そうと、車体を限界まで傾けてカーブを通過していく。これほどまで激走する振り子電車に乗ったのは初めてで、遅れて良かったような困ったような複雑な気分である。
結局、米子到着は5分遅れの18時42分。急いで跨線橋を駆け上がり、改札を抜けて、駅舎の外に出て、周囲を見回すと、正面出口の左側に「AIRPORT LIMOUSINE」と大書きされたバスが停車していた。バス停までダッシュしたが、タッチの差でバスは発車してしまった・・・


★究極の選択
残された米子空港までのルートは2つ。1つは定石どおりタクシーで空港に向かう方法。もう1つはうろ覚えの境線で(過去に一度乗りに来た時に米子空港の真横を通った記憶がある)、イチかバチかの勝負に出るかである。これから乗ろうとする便が最終便であるので、堅くいくならタクシーを選択すべきだが、料金は高いし夕方の渋滞に巻き込まれる恐れがある。境線の次の列車は18:54発で、幸い好接続である。私は逡巡の末、境線に乗ることに決めた。

夏至直前の西日本は19時半でも薄明かりが残る

中浜駅から米子空港へは案外近かった

夜の帳が降りて全日空820便の機中の人に
境線の鈍行列車は欠き取りホームにちょこんと1両で停まっていた。なにせ、こちらはどこで降りればいいのか、また何時に着くか分からない身である。ワンマン列車なので車掌さんは乗っていない。乗務中の運転手さんに訊くわけにもいかない。空港に向かう乗客なんか乗っていないだろうから、乗り合わせた人に訊くのも期待薄だろう。不安が渦巻く中、境港行きは定刻に発車した。
列車は2〜3分ごとに停車と発車を繰り返し、まるで路線バスのようである。しかし米子から数えて9駅めの大篠津駅手前で空港の敷地が見えた。私にとっては待望の瞬間だった。空港ターミナルはもう少し北寄りに建っていたので、私は次の中浜駅で下車した。駅から連絡通路でも設ければ、立派な空港駅になりそうな距離だが上の画像でも分かる通り一介の無人駅だった。到着時刻は19時24分。これなら19時55分の便に間に合いそうである・・・。
既に2万歩以上歩いている足に鞭打って、走ったり早足をしたりで、駅から空港へは10分も経たずに到着した。息をはずませながらチェックインし、汗びっしょりになりながら搭乗ゲートに向かった。

寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」号
★サンライズエクスプレス
米子を19時55分に出発した全日空820便は、21時前後には早くも東京お台場の上空に達していた。羽田空港に着陸後、地上走行時間が長かったので降機は定刻より遅れた。しかし21:31発の京急に乗車できたので上出来だろう。京急線内は車内はもとよりホームでも喫煙が出来なくなってしまったので、米子空港以来の一服は、22時ころ横浜駅のJRホームに着いてからである。
いつもなら羽田空港から新横浜経由で新幹線で帰るところだが、今日の場合は浜松行きの最終のこだまが出てしまった後である。そこで、かねてから一度乗ってみたいと思っていた寝台特急電車「サンライズ瀬戸・出雲」号で帰ることにした。通常の寝台特急は、たとえ横浜から浜松まで乗車するだけでも寝台料金が必要で、バカ高い金額になってしまうが、サンライズの場合は普通の指定席が連結されているので新幹線の自由席よりも安く浜松に帰れてしまう。

2等船室の桟敷を思わせる風景

「のびのびシート」は一応ひとりの空間がある

ミニラウンジで旅の資料をまとめる筆者
さて、その指定席は「のびのびシート」と名づけられ、かなりユニークな形状である。フェリーの2等船室を彷彿とさせる絨毯敷きだが、ひとりひとりのスペースは明確に分かれている。開放B寝台と比べるとプライバシーの面などで格落ちするが、横になれるという点ではグリーン座席よりも楽に眠れる。ただし今日は日付をまたいだ1時11分に降りなければいけないので、おちおち眠るわけにはいかない。万が一眠ってしまえば明日の朝は岡山か備中高梁で、今日の日程を改めてやり直さなければならなくなる・・・。そんなわけで、指定された自分のスペースを使うことなく、もっぱら2両離れた「ミニラウンジ」で過ごすことにした。
東海道在来線を走るとはいえ、浜松までの228.3`の区間を2時間47分で走り抜け、評定速度は82`(こだまは約120`)。かなり俊足である。普段めったに乗らない在来線を、真夜中に走るということでかなり新鮮味を感じた。浜松までの時間は新幹線に比べて短く感じられるほどで、日付が変わった6月8日の午前1時過ぎ、私は無人の浜松駅ホームに降り立った。
<おしまい>

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