30 Years Ago Now And Then
2018

    
1988年1月30日付
第3位 Hazy Shade Of Winter - Bangles
新しい年を迎え、1988年1月の思い出を記すにあたって、私がいつ好景気(=バブル景気)を実感したのかを考えてみました。当時興味のあったクルマで考えると、ハイソカーといわれていたマークU3兄弟がモデルチェンジされ、カローラより売れたのが1988年夏でした。その頃には就職活動を終えており、まさに好景気による空前の売り手市場だったため、企業は内定辞退を防ぐのに必死で、学生をあの手この手を使って拘束をしていました。それより少し遡って、スペシャリティカーと言われたプレリュードが1987年春にモデルチェンジ。それが爆発的に売れたために、日産は1988年春にシルビアを投入。当時の我々のような若い世代の憧れのクルマとなり、こちらも爆発的に売れました。映画「私をスキーに連れてって」は1987年12月で、私はそれに憧れてセリカを買ったのですが、あの映画も今思えば、かなりバブル臭がします。これらのことを総合すると、1988年前半には「バブル」だとは気付いていないものの、学生だった私にも分かるほどの好景気となっていたような気がします。
さて、世の中がバブルに浮かれ出したころ、それとは一線を画す楽曲がヒットしました。それが今回紹介するバングルスの「冬の散歩道」です。オリジナルはサイモン&ガーファンクルが1966年にリリースしたものですが、オリジナル・バージョンは斉藤洋介の怪演で知られる1994年のTBSのドラマ「人間・失格」で使われておりますので、むしろそっちのイメージが強いかもしれません。バングルスのカバー・バージョンの方は、原曲よりハードで疾走感のあるロックに仕上がっており、私はむしろこちらの方が好みかもしれません。そういう意見が多いのかどうか分かりませんが、原曲は全米13位どまりでしたが、バングルスの方は全米3位にまで上がりました。閑話休題、私の自宅の前の道を南に5キロほど南に行った小学校の前に、桜並木の道があります。当然、冬に通ると葉っぱを全て落としている状態なのですが、高度の低い冬の太陽に照らされると、梢がきらきら光って美しい冬枯れの並木となります。で、例年この時期にクルマで通るたびに「冬の散歩道」のメロディーが浮かび上がるというわけです。
それでは当時のチャートアクションを振り返ってみましょう。バングルスの「冬の散歩道」は1988年1月30日付ビルボードHOT100で、前述のとおり最高位3位を記録し、翌週2月6日付でも3位をキープしました。その他の上位の曲は、1位がインエクセスの「ニード・ユー・トゥナイト」、2位がティファニーの「思い出に抱かれて」、5位がエクスポゼの「シーズンズ・チェンジ」と、みなさんおなじみの全米1位曲が目白押しの週でした。その中で先週よりランクを落としていますが、故ジョージ・ハリソンの「セット・オン・ユー」が、ほのぼのしていて1月らしい曲だと思います。
1988年2月20日付
第6位 Say You Will - Foreigner
1988年の2月といえば学生時代最後の春休みに入り、前半はバイトに精を出し、新学期直前の4月には九州初上陸を徒歩で果たしました。その旅のお供に作ったカセットテープ「Spring Tour Attendants T」には、その時代までの春を感じさせる曲を収録したのですが、1曲くらいは当時の最新の曲を入れたいと思っていました。で、選んだ曲が今回紹介するフォリナーの「セイ・ユー・ウィル」。おかげで30年経った今でも春になると聴きたい1曲となっています。
「セイ・ユー・ウィル」はフォリナーの6枚目のアルバム「インサイド・インフォメーション」からの最初のシングル・カット曲としてリリースされました。フォリナーといえば4枚目のアルバム「4」が大ヒットしましたが、バンドというのは大成功するとメンバー間の軋轢を生むのが常で、この頃には主要メンバーのミック・ジョーンズとルー・グラムの関係が悪化していました。結局このアルバムを最後にルー・グラムが脱退し、フォリナーでルー・グラムのヴォーカルが聴ける最後の曲のひとつとなってしまいました。曲としては「4」のシングル曲「アージェント」に、イエスのロンリー・ハートで流行ったサンプリング調のシンセサイザーをフィーチャーしており、いかにも売れ線の曲でした。そして、それに飽き足らなかったのか「ガール・ライク・ユー」のバックで入っている特徴的な8分音符のシンセまで入れており、ラーメンで言えば「全部盛り」的な欲張った曲でした。
「セイ・ユー・ウィル」は1988年2月20日付ビルボードHOT100で最高位6位を記録しましたが、前作で1位に輝いた「アイ・ウォナ・ノウ」までのヒットには至りませんでした。これを境に彼らの低迷期が始まったわけです。ただこの時期は従来のロック・バンドが80年代前半ほどヒットが飛ばせなくなっており、同じ週の上位にその傾向が見てとれます。1位は女性ヴォーカル・グループのエクスポゼ「シーズンズ・チェンジ」。4位にはワム!からソロ転向したジョージ・マイケルの「ファーザー・フィギュア」。この曲は翌週から2週連続で全米1位となっています。そして8位にはソロシンガーのリック・アストリー「ギヴ・ユー・アップ」。こちらも3月12日から2週連続の全米1位です。この状況の中でベテラン・バンドが健闘していたともいえます。
1988年3月26日付
第11位 (Sittin' On)The Dock Of The Bay - Michael Bolton
先月2月には「Spring Tour Attendants T」に収録した「セイ・ユー・ウィル」を紹介しましたが、今月も同じカセットテープの収録曲を取り上げます。それはマイケル・ボルトンの「ドック・オブ・ベイ」です。テープの中ではラス前に配置し、最後の曲がパット・メセニーの「ラスト・トレイン・ホーム」というインスト曲でしたので、このテープの実質的な佳境に抜擢した曲です。そのため、今でもこの曲を聞くと、夕暮れの車窓を見ながら、水割りを飲みたくなるという、パブロフの犬みたいな現象が起こります。
「ドック・オブ・ベイ」の原曲は、言わずと知れたオーティス・レディングが歌っているのですが、マイケル・ボルトン版の方は、原曲の良さをそのままに、大上段から抒情的に振り下ろすというテイストを加味した曲調となっています。原曲の淡々と歌うオーティス・レディングも味があるのですが、マイケル・ボルトンの迫力のあるハスキー・ボイスの盛り上がりも捨て難く、甲乙が付けられません。また、間奏の泣きのギター・ソロは、この曲一番の聞きどころとなっており、当時AOR原理主義者だった私は、この大袈裟さな盛り上がり方にイチコロでやられました。で、この曲の収録されているアルバム「いざないの夜」をついつい買ってしまったのですが、これがどうにもイマイチで、まぁ音楽ファンの「あるある」を、はからずも経験してしまいました。
「ドック・オブ・ベイ」は1988年3月26日付ビルボードHOT100で最高位11位を記録し、翌週もその順位をキープしたのですが、とうとうトップ10入りを果たせませんでした。その週の1位はマイケル・ジャクソンの「マン・イン・ザ・ミラー」でした。この曲も現在まで歌い継がれる名曲ではありますが、私としては4位のデビー・ギブソン「アウト・オブ・ザ・ブルー」や、5位のビリー・オーシャン「明日へのハイウェイ」の方がお気に入りです。特に後者は4月から自宅通学となった私が、東海道線の鈍行列車の中でよく聞いた曲で、今となっては学生時代の懐かしの一曲となっています。
1988年4月30日付
第11位 Always On My Mind - Pet Shop Boys
新学期に入り大学4年生となった1988年4月。私は下宿を引き払い自宅から通学するようになりました。4年生になれば講義がほとんどなく、自宅から就職活動をすればいいやと思っていましたが、それは甘い考えでした。卒研の指導を受けるため、1週間のうち4〜5日は静岡に通うことになり、天竜川〜静岡の在来線の定期券を買い、静岡駅の駐輪場にバイクを置いて、せっせと通っていました。おそらく人生で最も陸上の移動距離が長かった1年だったと思います。さて、鈍行で片道1時間かかる電車通学のヒマな時間を紛らすため、FMの洋楽番組をエアチェックし、電車の中でウォークマンで聞くという生活がルーチンとなりました。おかげで高校生時代以来の洋楽通となり、ビルボード上位の大半の曲は口ずさめるようになってしまいました。
その通学電車の中で聞いた曲の中から、そのころ盛んに聞いた1曲を今回紹介します。それはペット・ショップ・ボーイズの「オルウェイズ・オン・マイ・マインド」です。「オルウェイズ・オン・マイ・マインド」といえば、エルヴィス・プレスリーが1972年にヒットさせたバージョンが有名ですが、その前にブレンダ・リーが録音し、カントリー・チャート載せていたことはあまり知られていません。時代は下って1980年代、ウィリー・ネルソンさんがこの曲をカバーし、ビルボードHOT100で5位にチャートインさせました。その結果、1983年のグラミー賞でソング・オブ・ザ・イヤーを獲得するという栄誉に浴しました。ちなみにその年のグラミーは「TOTOの年」と呼ばれており、「ロザーナ」がレコード・オブ・ザ・イヤー、「TOTO W」がアルバム・オブ・ザ・イヤーと主要2部門を獲得しています。さらに時代が流れて1988年、ペット・ショップ・ボーイズが時代の音を取り入れ、ダンサブルなナンバーに仕立ててヒットさせました。アタッキングの強いシンセサイザーが印象的な曲ですが、ボーカルの部分はほのぼのとしていて、この曲の良さを引き出していました。
ペット・ショップ・ボーイズの「オルウェイズ・オン・マイ・マインド」は、1988年4月30日付ビルボードHOT100では11位でしたが、その後順位を上げ、同年5月21日付チャートでは最高位4位を記録し、ウィリー・ネルソンさんをチャート上では超えています。4月30日付の第1位はホイットニー・ヒューストンの「ブロークン・ハーツ」、第2位はテレンス・トレント・ダービーの「ウィッシング・ウェル」、第3位はエアロ・スミスの「エンジェル」ということで、大学3年生までと違って、このへんの曲はすぐ思い出します。以下チャート上位には、後に全米1位となるグロリア・エステファン&マイアミ・サウンド・マシーンの「エニシング・フォー・ユー」やナタリー・コールの「ピンク・キャデラック」、あるいはビートルズのカヴァーをしたティファニーの「アイ・ソー・ヒム・スタンディング・ゼア」など、きら星のごとく当時エアチェックしていた曲が並んでいます。
1988年5月28日付
第1位 One More Try - George Michael
大学に入学する時には「SBS静岡放送に入社する」ことを真剣に考えていたのですが、いざ就職活動を始めてみると「SBSはコネがないとダメ」などという噂が出回り、何もアクションを起こさぬまま、7月に別の会社の内定をもらい就職活動を終了しました。今思えば、何らかの形でアクションを起こしていれば、違った人生だったかもしれませんが、それも運命というヤツですね。さて、就職活動を始めていた大学4年生の5月ですが、就職先とは無関係に「SBS愛」は続いていました。夜の若者向けラジオ番組で、SBSとしては珍しく女性アナウンサーがパーソナリティに起用され、その番組を聴きながらキュンキュンしていたのを思い出します。そのアナウンサーは目黒祐子さんなのですが、今ではキトちゃんがその役割を十分以上にこなしていると思います。さて、当時その目黒アナが、SBSの看板女子アナだった永野敦子さん、鳥居睦子さんと一緒に「とっとき情報925」というテレビ番組に出演していました。その番組中に洋楽のビデオクリップを紹介するコーナーがあり、今回紹介するジョージ・マイケルの「ワン・モア・トライ」も初見がこの番組でした。
「ワン・モア・トライ」は大ヒットしたジョージ・マイケルのソロアルバム「フェイス」からの4番目のシングル・カット曲で、アルバムの中では最もバラードっぽい仕上がりとなっています。伝統的な8分の6拍子のリズムで、スローに歌い上げる佳曲で、私にとっては「フェイス」の中で一番好きな曲でした。1987年8月の項で触れた「アイ・ウォント・ユア・セックス」とは曲調も歌詞の内容も正反対の楽曲で、アルバム「フェイス」の収録曲が多彩であったことが分かります。これが大ヒットにつながったのでしょう。
では例によって当時の全米チャートのおさらいをします。ジョージ・マイケルの「ワン・モア・トライ」は、1988年5月28日付ビルボードHOT100で1位になり、そのまま同年6月11日付チャートまで3週連続でトップを維持しました。同じ週の2位はジョニー・ヘイツ・ジャズの「シャタード・ドリームス」で、直訳すると「ジョニーはジャズが嫌いだ」という風変わりなバンド名が、当時同級生の仲間たちの中で話題になった覚えがあります。そして3位はグロリア・エステファン&マイアミ・サウンド・マシーンの「エニシング・フォー・ユー」。この曲が前週の1位(2週連続)で、当時のマイアミ・サウンド・マシーンの人気ぶりをよく表しています。
1988年6月18日付
第1位 Together Forever - Rick Astley
先月ぐらいから「平成最後のゴールデンウィーク」など「平成最後の〇〇」というフレーズをよく聞きますが、30年前の1988年6月も昭和最後の梅雨の時期でした。といっても今年のように最後だと思って過ごしていたわけではないのですが…。その梅雨時は、私の就職活動の佳境の時期で、1987年12月のこのコーナーで綴っているように、ベリンダ・カーライルの「ヘヴン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」を聞きながら、西へ東へ移動していた時期でもありました。その就活をぬって、相変わらず大学にもかなりの頻度で顔を出しており、通学の鈍行電車では最新の全米ヒットが耳のお供でした。今回は、その頃聞いていた曲の中からリック・アストリーの「トゥギャザー・フォーエバー」を紹介したいと思います。
さて、この曲は彼のデビュー・アルバム「ホエンエバー・ユー・ニード・サムバディ」からの4枚目のシングル・カット曲で、たぶん彼の楽曲の中で最も有名な曲のひとつでしょう。外見の印象からすると意外なほど野太いヴォーカルで、白人とはいえソウルナンバーも歌えそうな感じですが、この曲は軽快なロック・ナンバーで、当時流行りのストック・エイトキン・ウォーターマンのサウンドの中でも王道という感じです。キャッチーなサビと、華やかなシンセサイザーの音色が、バブル景気に浮かれていたその頃の世間を象徴している感じです。ところで、リック・アストリーは私と同じ1966年生まれ。大学4年生ともなれば、当時の全米1位を取るアーティストが同世代というケースが出現するんですね。
それでは、恒例ではありますが当時の全米チャートを振り返っていきましょう。リック・アストリーの「トゥギャザー・フォーエバー」は1988年6月18日のビルボードHOT100で1位を獲得しました。もっとも当時のビルボード上位は順位の変動が激しく、この週のみの全米1位という結果でした。同じ週の2位は、先月紹介したジョージ・マイケルの「ワン・モア・トライ」、3位は翌週1位となるデビー・ギブソンの「フーリッシュ・ビート」でした。デビー・ギブソンに至っては私より4歳年下の1970年生まれ。洋楽を聞きだした頃には、1位になる人はオジサン、オバサンばかりでしたが、10年も経つと繰り返しになりますが、自分より年下の歌手も1位になる時代になるのですね。その他7位には前述ベリンダ・カーライルの「サークル・イン・ザ・サンド」、8位にはピアノのテクに惚れたブルース・ホーンズビー&レインジの「ザ・ヴァレー・ロード」がランクインしていました。
1988年7月9日付
第1位 The Flame - Cheap Trick
1988年7月7日、第1希望だった前職の会社より内定通知をもらい、就職活動は無事終了しました。自分の音楽の趣味としては「第3次70年代ブーム」真っ盛り。スリー・ドッグ・ナイトの「オールド・ファッションド・ラヴ・ソング」やアメリカの「名前のない馬」など、リリースから15年以上経ったもので、当時のラジオではめったにオンエアされない曲にはまっていました。そんな埃をかぶった曲を集めてカセットテープを作り、伊良湖岬への小旅行のお供にしました。それ以来30年が経ちましたが、就職が決まった晴れやかな気分と、梅雨が明けたような夏空の車窓がマッチして、その時の光景は今でも印象深く残っています。そんなことがあった同時期に全米ナンバーワンヒットとなっていたのが、今回紹介するチープ・トリックの「永遠の愛の炎」です。
「永遠の愛の炎」はチープ・トリックにとっての最初の全米1位シングルで、現在までのところ彼らにとっての唯一の全米1位シングルです。チープ・トリックの名前を私が初めて知ったのは、1979年リリースのシングル「ドリーム・ポリス」で、同年に始まったSBSラジオのポピュラーベストテンでランクインしたからですが、私にとってはそれ以来9年ぶりの再会となりました。曲調としては当時としても古臭い方のロック・バラードですが、逆にこういう曲の方が名曲として残るようで、今でも聞き心地がいい曲です。いわゆる2コーラスめが終わった後に短めですが抒情的なギターソロが入り、その後ブリッジ〜サビの繰り返しという予定調和的な構成がいいのかもしれません。
それでは当時のチャートを振り返りましょう。チープ・トリックの「永遠の愛の炎」は1988年7月9日付ビルボードHOT100で1位に上がり、翌週もその位置をキープしました。同じ週のチャートには後に全米1位に輝くリチャード・マークスの「ホールド・オン・トゥ・ザ・ナイツ」が8位に、またスティーヴ・ウィンウッドの「ロール・ウィズ・イット」が12位にランクされていました。スティーヴ・ウィンウッドは2作続けてアルバムが大ヒットし、80年代終盤の洋楽シーンを語るには欠かせない存在でした。
1988年8月13日付
第3位 Make Me Lose Control - Eric Carmen
今年は夏の甲子園が100回めの記念大会にあたるそうです。1988年8月の甲子園、静岡代表は浜松商業で、ベスト8まで進む快進撃でした。とりたてて高校野球ファンでもない私が、30年前の地元代表の成績を覚えているのは、夏休みに行った旅が原因です。8月23日から27日まで、ユースホステルや公共の宿に泊まりながら、輪島から下関まで日本海に沿って旅をしました。その時、同宿の方に「どちらから来たのですか?」と尋ねられるたびに「浜松です」「浜松商業いいところまで行きましたね」というやりとりになりました。おかげで浜商が甲子園で頑張った夏という記憶があるわけです。当時は出雲市以西の山陰線鈍行列車のほとんどが50系で、駅に停まるたびに蝉時雨の声が車内に響き渡るという感じでした。
旅に持って行った曲としては、先月にも紹介した通り70年代の曲が中心でしたが、もちろん当時最新のヒット曲もお供にしました。今月は、その中からエリック・カルメンの「メイク・ミー・ルーズ・コントロール」を紹介します。私にとっては、エリック・カルメンも70年代のアーティストというイメージがあり、代表曲の「オール・バイ・マイセルフ」は1976年にビルボードHOT100で2位を記録しています。そして「メイク・ミールーズ・コントロール」は、それ以来の大ヒット曲となり、後で詳しく述べるとおり全米3位を記録しました。曲調は80年代も終わりというのに、70年代のテイストが残る、ほのぼのとした曲でした。ユーロビートやストック・エイトキン・ウォーターマンのサウンドが幅を利かす中で、この曲の持つおおらかさに心を癒されたものでした。
それでは当時のチャートを振り返りましょう。エリック・カルメンの「メイク・ミー・ルーズ・コントロール」は1988年8月13日付ビルボードHOT100で3位を記録。同じ週の1位は、先月も述べましたが、スティーヴ・ウィンウッドの「ロール・ウィズ・イット」でしたが、それ以外にもきら星のごとく佳曲が揃っていました。4位にテレンス・トレント・ダービーの「サイン・ユア・ネイム」、5位にグロリア・エステファン&マイアミ・サウンド・マシーンの「1・2・3」、6位にエルトン・ジョンの「アイ・ドント・ウォナ・ゴー・オン」、7位にシカゴの「アイ・ドント・ウォナ・リブ・ウィズアウト・ユア・ラブ」と昭和最後の夏を飾る大げさソングがチャートを賑わせました。この翌月には派手な歌舞音曲は自粛になってしまうのですが…。
1988年9月10日付
第62位 The Rumour - Olivia Newton-John
1988年9月といえばバブル景気の絶頂期でしたが、私自身は卒論執筆のプレッシャーが忍び寄ってきた時期でもあり、「あ〜、卒論書かなきゃ…でも書けない。」「それじゃ気分転換に昔のマンガでも…」「わっもうこんな時間。卒論がひと文字も書けていない…」とひどい自己嫌悪に苛まれる日々を送っていました。そんな時、昭和天皇の吐血(9月19日)があり、お祭り騒ぎだった世間は、一転自粛ムードに。日産セフィーロのCMの井上陽水は突如として口パクとなり、クイズダービーのオープニングの「ロート、ロート、ロート…」のCMソングは、昭和が終わるまで聞くことはありませんでした。そのころさかんに囁かれていたワードが「Xデー」で、そのXデーがまさか卒論の提出日に重なるとは思いもしませんでした。「Xデー」にまつわる噂が世間で飛び交う中、全米チャートに「The Rumour」(邦題「噂」)という曲がランクインしていました。
「噂」は80年代初頭に一世を風靡したオリビア・ニュートン・ジョンのシングルで、「フィジカル」が収録されていたアルバム「虹色の扉」、スマッシュヒットしたアルバム「麗しの瞳」に続いてリリースされたアルバム「噂〜うわさ」の1枚目のシングルカット曲でした。はっきりいってしまうと商業的には失敗に終わった曲で、世間の人々にフィジカルの神通力がもう効かなくなってしまった頃の曲ではありますが、「腐る直前が一番おいしい」という言葉もあるとおり、私自身は割と好きな曲でした。特にブリッジのマイナーコードで進展するところの歌声は、往年の「そよかぜの誘惑」を彷彿とさせます。
オリビア・ニュートン・ジョンの「噂」の全米最高位は62位。1988年9月10日付のビルボードHOT100で記録されたものでした。1981年から1982年にかけて10週連続で1位を記録し、1982年のビルボード年間1位に輝いた楽曲を持つ彼女にとっては目を覆うほどの順位でした。ちなみにこの週の1位はガンズ・アンド・ローゼスの「スィート・チャイルド・オブ・マイン」、2位はロバート・パーマーの「この愛のすべてを」、3位はヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの「パーフェクト・ワールド」でした。この週は男臭いロックが上位を占めていたようです。
1988年10月1日付
第1位 Don't Worry, Be Happy - Bobby McFerrin
今月、来月とトム・クルーズ主演の映画「カクテル」に使われてヒットした曲を紹介します。まずはボビー・マクファーリンの「ドント・ウォーリー、ビー・ハッピー」を取り上げます。私はこのフレーズを聞くとついつい高田純次さんを思い出してしまいます。元気が出るテレビでバズーカをぶっ放して人気者だった高田純次さんが、オーストラリアのバラエティ番組に出演し、そこでもバズーカを撃って警察沙汰になったということがありました。その時に英語が堪能でない彼が使っていたフレーズが、「ドント・ウォーリー、ビー・ハッピー」。もちろんこの曲のヒットを受けて使っていたのですが、外国人に対するジョークとして「これは使える」と思いました。そういった意味では、中学1年生の時に洋楽に目覚めて以来、数々の使えるフレーズをため込んでいたので、英語が下手くそでも、1人で海外を旅することができていたのかもしれません。
さてこの「ドント・ウォーリー、ビー・ハッピー」ですが、楽器を一切使用せず、ボビー・マクファーリン自身の声だけで演奏されています。こうした曲が全米1位となったのは後にも先にも例がなく、まさしくオンリーワンの曲といっていいでしょう。「くよくよせずに楽しくやろうぜ」というタイトルと、その曲調から、私はこの曲に春の雰囲気を感じ、春旅(Spring Tour)には必ずお供に持っていく曲となっています。
では最後にチャートを振り返っておきましょう。「ドント・ウォーリー、ビー・ハッピー」は、1988年9月24日付ビルボードHOT100で1位に上昇し、翌週10月1日付のチャートでも1位を守り、2週連続の全米1位となっています。10月1日付チャートの上位の曲を見てみると、翌週10月8日付で1位となるデフ・レパードの「ラヴ・バイツ」が2位、テイラー・デインの「アイル・オルウェイズ・ラヴ・ユー」が3位、シカゴを脱退後も人気を保ち続けていたピーター・セテラの「ワン・グッド・ウーマン」が4位、レゲエのUB40「レッド・レッド・ワイン」が5位でした。また6位のチープ・トリック「冷たくしないで」はエルヴィス・プレスリーのカバーと、百花繚乱といった上位陣でした。
1988年11月5日付
第1位 Kokomo - The Beach Boys
1988年11月。人生で最も煮詰まっていた時期かもしれません。30年前の日記を読み返すと、毎日のように卒論の進捗具合(というよりも卒論を書かずに〇○をしたということ)が書かれていて、いかにこの時期に卒論で悩んでいたかが分かります。自宅では到底卒論を書く気にならず、往復3時間以上かけて大学の図書館に行くのですが、図書館で関係ない本を読んでしまい、一行も書けずに帰ってくる日々でした。そんな生活の中で、わずかな癒しは、松岡直也さんが講師を務めたNHK教育テレビの「ベストサウンド」の放送と、その月の末に社会学科の4年生と教員で行った1泊の東京研修旅行でした。その夜の宴席で「ベストサウンド」の話題が出て、割と見ている人が多いんだなぁと思ったことを覚えています。
さて、そんな暗黒の日々に流行っていた洋楽は、先月に引き続き「カクテル」という映画で使われていたビーチ・ボーイズの「ココモ」です。どんより沈んだ日々に響く、陽気なリゾートソングは、一瞬でも私を現実逃避させてくれました。歌詞にはジャマイカのリゾート地がたくさん入っているのですが、「Bermuda, Bahama, come on pretty mama」の後半部分が「カンパリ、ママ」と聞こえ、「あ〜カンパリソーダ飲みてぇ」と思っていました。閑話休題。それにしても、この時代のトム・クルーズ人気はすさまじく、主演する映画が軒並み大ヒットしていました。
それでは恒例の当時のチャートを振り返ります。「ココモ」は、1988年11月5日付ビルボードHOT100で1位を獲得するも、翌週にはエスケイプ・クラブの「ワイルド・ワイルド・ウエスト」に首位の座を奪われてしまいました。当該週の2位はその「ワイルド・ワイルド・ウエスト」、3位はフィル・コリンズの「恋はごきげん」で、この曲も後に全米1位を獲得します。4位はカイリー・ミノーグ最大のヒットとなったリトル・エヴァのカバー曲「ロコモーション」。そして5位にはボン・ジョビの「バッド・メディシン」が入り、こちらもまた後の全米1位です。いずれにせよトップの曲がめまぐるしく代わる昭和の暮れでした。
1988年12月17日付
第3位 Giving You The Best That I Got - Anita Baker
実質的に昭和最後の日々となった1988年12月ですが、その前の月にさんざん悩みまくっていた卒論もようやく最後まで書き上げ、12月半ばには清書するだけとなっていました。それでもトータル150ページにも及ぶ大作でしたので、清書するにも一苦労で、そのころようやく使われ始めたワープロを、最初から使っていればと後悔しました。世間ではバブル絶頂期の年末ということで、賑やかな忘年会が繰り広げられた一方で、まだ来ぬ「Xデー」のため公的にはバカ騒ぎできない自粛ムードもあり、ムードはないまぜでした。おなじみのJR東海のクリスマスCMが始まったのもこの年で、深津ちゃんが山下達郎のクリスマス・イヴをバックに100系新幹線を見送るシーンにキュンとしたのを思い出します。そんな中、クリスマスも正月もなく、自分は卒論の締め切りに向けて、ただひたすら筆を進めるという年末年始でした。

そんなころヒットチャート上位にランクされ、私の印象にも残った曲はアニタ・ベイカーの「ギヴィング・ユー・ザ・ベスト」でした。翌月、卒業旅行と称したSpring Tourのために作ったカセットテープに、1曲新しい曲を入れようと思い、収録した曲がこの曲でした。前年のSpring Tourのお供に作ったテープで、この曲同様の位置づけになる曲が、今年2月に紹介したフォリナーの「セイ・ユー・ウィル」でしたが、「ギヴィング・ユー・ザ・ベスト」の方も「セイ・ユー・ウィル」同様、春をイメージする曲となってしまいました。特にこちらは、テープで最も盛り上がるB面最終盤に収録しましたので、ジャネット・ジャクソンの「急がせないで」や、リンダ・ロンシュタットの「星に願いを」といった前後の名曲と同様、春の旅を盛り上げる一曲となりました。
では最後に当時のチャートを振り返ります。アニタ・ベイカーの「ギヴィング・ユー・ザ・ベスト」は、1988年12月17日付のビルボードHOT100で最高位3位を記録しました。その週の1位はシカゴの「ルック・アウェイ」、2位はポイズンの「エヴリ・ローズ・ハズ・イッツ・ソーン」で、それほど思い入れのある曲でもなく、卒論作成に必死で全米チャートどころではなかったことを思わせます。さて来年は、大学卒業と社会人1年生となった1989年を振り返ることになります(そして12月が最終回となります)。人生の転換期に心に残った曲が数多く登場しますので、来年のこのコーナーもよろしくお願いします。

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