30 Years Ago Now And Then
2017

    
1987年1月31日付
第18位 This Is The Time - Billy Joel
前年1986年にリリースされたビリー・ジョエルのアルバム「ザ・ブリッジ」からの3rdシングル「ディス・イズ・ザ・タイム」を今回は紹介します。1987年1月といえば私が「夕やけニャンニャン」にどっぷりとハマッていた時期で、夕方5時にはいつもテレビの前にいてオープニングの「NO MORE 恋愛ごっこ」を聞く日々でした。話は脱線しますが、この曲のフロントライン4名(富川、永田、岩井、白石)か、その前の「恋はクエスチョン」のフロントライン(永田、岩井、白石、生稲)が私にとっては最強の布陣でした。ところで、当時全盛だったアイドルに熱を上げたおかげで、洋楽チャートの方がおろそかになり、今回のような昔からファンだったアーティストの曲を、全米チャートの中から選んで聞くという状況になってしまいました。まぁそんな状況もおニャン子クラブの解散とともに一変し、1987年の後半からは再び全米チャートに舞い戻ることになったわけですが…。
さて今回の曲「ディス・イズ・ザ・タイム」ですが、私としては「ザ・ブリッジ」アルバムの中で最も好きな曲でもあります。アルバム中で最も従来のビリー・ジョエルらしいというか、前作の「イノセント・マン」に収録されていたとしても違和感がない感じがします。メロディアスで覚えやすいサビの部分で、伸びやかなビリー・ジョエルらしい歌声も聞け、リズムセクションもかっちりと決まった佳曲だと思います。ジャジーな雰囲気のリズムギターも印象的で、当時のビルボード・アダルトコンテンポラリー・チャートで1位になったのも頷ける大人向けの音楽です。ちなみにビリー・ジョエルの曲の中で、アダルトコンテポラリー・チャートの1位を獲った曲はわずか8曲で(HOT100で1位は3曲)、もっと評価されてもいい曲のような気がします。
それでは例によって当時のチャートアクションを振り返っておきましょう。ビリー・ジョエルの「ディス・イズ・ザ・タイム」は1987年1月31日付のビルボードHOT100で最高位18位を記録しました。その翌週には20位にランクダウンということで、ACチャートでの健闘ぶりを考えると少し残念な結果でした。その週の1位はビリー・ヴェラの「アット・ディス・モーメント」。まったく知らない曲ですが、アメリカのTVドラマ絡みでリバイバルヒットしたらしく、おニャン子にお熱だった当時の自分にとっては対極の位置にあり、知らないのも無理はないといったところです。2位はマドンナの「オープン・ユア・ハート」、3位はロビー・ネヴィルの「セ・ラ・ヴィ」で、この2曲は当時よく耳にした覚えがあります。1987年の前半はこんな感じで進みますので、ご勘弁のほどを…。
1987年2月14日付
第1位 Livin' on a Prayer - Bon Jovi
私の運転免許証には取得日が2つ載っています。ひとつは昭和60年9月3日で、こちらは普通免許の取得日。もうひとつは昭和62年2月6日で、小型自動二輪車の取得日です。普通免許の方は、地元の自動車学校に夏休みの間にせっせと通った末に取得したもので、別にどうということもないのですが、自動二輪の方は汗と涙の結晶という感じです。というのも普通免許を取った後にバイクに目覚め、原付のスクーター→原付のスポーツバイクとステップアップして、30キロの速度制限がかったるくなりました。そこで、ある程度クラッチ付きのバイクの操作に自信を持ったところで、運転免許試験場の実地試験に臨みました。いわゆる一発の試験というのは、自動車学校で免許を取るよりも厳しく設定されていて、たかだか125ccの免許を取るのに何度も落とされましたが、30年前の2月にようやく実地試験に合格し、晴れて125ccのバイクにステップアップすることができました。合格した時には、大学の試験に合格した時よりも嬉しく、「人生最良の日」という言葉がしっくりしたものでした。
さて、そんな記念すべき1987年の2月にヒットした曲を今回取り上げたいと思います。ハードロックの楽曲としては、21世紀になってから十数年を経過した現在でも残っている稀有の存在である「リヴィン・オン・ア・プレイヤー」ボン・ジョビです。貧しいながらも懸命に生きるカップルを歌った、今では物語の世界のようなことを歌った曲ですが、30年前に若者だった自分にとっては「ここまではないけど、気持ちはよく分かる」的な曲で、キャッチーなメロディとあいまって世界的な大ヒットになったと思います。その後、社会人になってからこの曲をカラオケでよく歌ったのですが、奴さんよろしく転調後の音がどうしても出ずに仲間から失笑が漏れたものです。PVの方はライヴのリハーサルから本番までを編集したもので、当時のMTVでは特に目立つような感じではなかったのですが、当時のMTVではヘビーローテーション。そんなわけでこの曲を聴くと、PV中のいくつかのシーンが甦ってきます。まぁ今でもたびたび目にするからかもしれませんが…。
それでは例によってチャートを振り返ります。「リヴィン・オン・ア・プレイヤー」は1987年2月14日付ビルボードHOT100で、前週で1位だった「オープン・ユア・ハート」に代わってトップに立ちました。2位マドンナ、3位シンディ・ローパー、4位サマンサ・フォックスと上位に女性ヴォーカリストがひしめく中で、男臭いハードロックが1位になったのは快挙といえるでしょう。その後同年3月7日付チャートまで4週連続で全米1位をキープしました。なおこの曲を収録しているアルバム「ワイルド・イン・ザ・ストリーツ」も全世界で売れまくり、トータル2,800万枚を超すセールスを記録しました。ボン・ジョビを世界的なバンドにさせた記念碑的なアルバム並びに楽曲だったといえましょう。
1987年3月28日付
第8位 The Final Countdown - Europe
1987年3月31日、官設鉄道時代も含めて115年の歴史を持つ日本国有鉄道(国鉄)が終焉の日を迎えました。翌4月1日より分割民営化でJR各社が発足しましたが、この2日間を中心に鉄道が各メディアで集中的に取り上げられ、当時バイクを指向していた私は再び鉄道ファンに舞い戻ったという感じです。というわけで今回取り上げる曲も国鉄の「最後」にちなんで、ヨーロッパの「ファイナル・カウントダウン」とさせていただきました。
ヨーロッパはスウェーデン出身のメタルバンドですが、日本で大衆に知られている曲は「ファイナル・カウントダウン」だけで、私は「一発屋バンド」だと思っていました。しかし今回調べてみると10枚もアルバムを発表しており、あまりにも有名な「ファイナル・カウントダウン」の陰で、現在までこつこつとバンド活動を続けてきたことがうかがえます。この「ファイナル・カウントダウン」については、ご存知のとおりキーボードのイントロが印象的で、当時F1グランプリの表彰式などで、ベートーベンの第九と並んでこの曲のイントロがよくかかっていました。カラオケボックスでこの曲のイントロが聞きたいがために歌ったことがありますが、キーが上すぎてとても歌えたものではありませんでした。ハードロック系は歌わずに聞くのが一番で、この曲に関してはドラマチックな展開も聞きどころのひとつです。
それでは最後に当時のチャートを振り返っておきます。1987年3月28日付および翌週の4月4日付のビルボードHOT100で、ヨーロッパの「ファイナル・カウントダウン」は2週連続で最高位8位を記録しました。この時のチャート上位の曲には、ここで取り上げたかったものもあり、たとえば3位のジャネット・ジャクソン「急がせないで」などは春の雰囲気にぴったりなスローテンポの名曲だと思います。春の旅に持って行くとキュンとなる曲としては、「ファイナル・カウントダウン」よりも「急がせないで」だと思いますが、いかがでしょうか。
1987年4月4日付
第4位 Let's Wait Awhile - Janet Jackson
先月に国鉄終焉の日をつづりましたが、明けて1987年4月1日にJR各社が発足しました。一夜のうちに全車両に「JR」のステッカーが貼られ、鉄道の新しい時代が始まったのだと感じました。そのJR各社の普通列車に乗り放題の「青春18きっぷ」を手に、私は4月7日、8日と西に旅立ちました。題して「西の Side Line ツアー」。この時に初めて私は本州を脱出し、四国に宇高連絡船で渡ったのですが、詳しい話は「Spring Tour 30周年記念」の旅の項でつづりますので、そちらをご覧くださいませ。その時に旅に持って行った音楽の中で最も思い出深いのが、おニャン子クラブのアルバム「サイドライン」なのですが、この頃になると洋楽のヒットチャートにも興味が戻っており、先月に触れたとおり今回紹介するジャネット・ジャクソンの「急がせないで」にも胸をときめかせておりました。
ご存知のとおり、ジャネット・ジャクソンといえば、「キング・オブ・ポップ」マイケル・ジャクソンの妹ですが、彼女の楽曲のイメージも彼の兄同様、激しいダンス・ナンバーが思い浮かぶところです。しかし今回の「急がせないで」はやさしいスローバラードであり、彼女にもこんな一面があったのかと驚かされました。春の旅のお供にするにはぴったりの曲で、「西の Side Line ツアー」以来30年にわたって春の旅の定番曲として旅先で聞いています。イントロからささやくような静かな歌い出しで始まり、サビの部分で盛り上がり、最後はフェードアウトではなく、きっちりコーダで終わるというバラードのフォーマットを踏襲しており、彼女のちょっとハスキー気味なハイトーン・ボーカルを存分に味わえる、安心して聞ける佳曲だと思います。
では例によって当時のチャートを振り返っておきます。1987年3月21日付のビルボードHOT100で、「急がせないで」は最高位の2位を記録しましたが、翌週3月28日には第3位にランクダウン。そして今回紹介した1987年4月4日付チャートでなんとか4位にとどまり、翌週はトップ10圏外へと去っていきました。2週連続で最高位8位を記録しました。当時の1位はスターシップの「愛はとまらない」。この曲は新学期のはじまりに相応しい元気の出る曲で、当時の私の心境にシンクロした曲でした。大学3年に進級し、教養部から学部生となった私は、それから2年間にわたって社会心理学を専門的に学ぶのですが、字面のイメージと実際にやってることが一致せず苦労するのでした。。。
1987年5月30日付
第5位 Big Love - Fleetwood Mac
中学生のころFMラジオのエアチェックに目覚め、それ以降「FMレコパル」や「FM STATION」などのFM情報誌を毎月買っては、エアチェックにいそしむ日々を過ごしていました。FM情報誌を定期的に購読していると、洋楽の新譜情報が容易に手に入り、今回紹介するフリートウッド・マックのアルバム「タンゴ・イン・ザ・ナイト」と、そのファースト・シングルカット曲である「ビッグ・ラヴ」のリリース情報もそこから仕入れました。このころのフリートウッド・マックは寡作で、前作アルバム「ミラージュ」から5年ぶりのオリジナルアルバムということで、FM情報誌でも大々的に取り上げられ、FMラジオでも各番組で特集を組まれたりしていました。この時期はレコードからCDに移っていく過渡期でしたが、そろそろデジタルの音作りに各プロデューサーが習熟してきた時期でもあり、「タンゴ・イン・ザ・ナイト」を聞いた時には「音のいいアルバムだ」という感想を持ちました。
さて1枚目のシングルである「ビッグ・ラヴ」ですが、アルバムでもA面1曲目に収録されていることもあり、このアルバムでもリードトラック的な役割を担っています。この曲はリンジー・バッキンガムがリードヴォーカルをとり、私の敬愛するスティービー・ニックスはバックコーラスに回っているのですが、彼ららしい魅力的なハーモニーを聞かせてくれます。またアルバムタイトルに「夜」が入っているように、この曲も夜の雰囲気があり、当時の真夜中のFMプログラムで間奏部分がかかっていた時の情景を、まるでほんの少し前だったかのようにくっきりと思い出します。アルバムではこのあと「セヴン・ワンダーズ」、「エヴリホエア」と怒涛のように良質なAORが続き、彼らの世界に引き込まれていきます。アルバムの中盤では、3rdシングルにして、このアルバムの中で最大のヒットとなった「リトル・ライズ」で盛り上がりを見せます。そしてアルバム最後の曲はちょっとかわいらしい「ユー・アンド・アイ(パート2)」。いきなり「パート2」がでてくるので、「パート1って過去にあったっけ?」と「プレイバックPartU」的な疑問を持ったのですが、今回紹介しているシングル「ビッグ・ラヴ」のB面に収録されているとのことでした。ちなみに私は「タンゴ・イン・ザ・ナイト」の中で、「ユー・アンド・アイ(パート2)」が、旅先の思い出の曲となっていることもあり最も好きな曲です。
では最後に当時のチャートアクションを振り返っておきましょう。「ビッグ・ラヴ」は1987年5月30日付のビルボードHOT100で最高位5位を記録しています。その週の1位はU2の「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」。言わずと知れた名盤「ヨシュア・トゥリー」(小林克也さん風に言うと、前にアクセントの「ジョシュア・トゥリー」)からのシングルカット曲です。U2の名前が出てくると30年前なのについ最近という感じがしてしまうのですが、「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」も含めて、「ヨシュア・トゥリー」については今なおいろいろなところで取り上げられますし、つい最近と錯覚しても仕方ないところかと思います。超大物バンドの5年ぶりの新作とはいえ、歴史的な名盤相手ではちょっと分が悪かったといったところでしょうか。
1987年6月13日付
第1位 Always - Atlantic Starr
アルバム「サイドライン」をお供に春の山陰路を旅して以来、ピークに達した私の「おニャン子熱」の終わりの始まりとなったのが1987年6月のことでした。というのも6月15日の夕焼けニャンニャンのオープニングにて、その年の9月におニャン子クラブ解散が発表されたからです。当日は水曜日。静大でも最も遠い人文学部棟で17時までの講義を受けていた自分が、17時から始まる番組のオープニングを下宿に戻って見られるわけがなく、その大事な瞬間を見逃してしまいました。いずれにせよ音楽の志向がおニャン子に引っ張られていた自分が、その解散以降に再び洋楽のヒットチャートに戻り、翌年には第三次70年代マイブームも起きるわけですからターニングポイントとなった月かもしれません。
さて、いずれにせよ1987年6月当時はおニャン子にどっぷり浸かっている状態ですから、ビルボードHOT100の1〜2位しかチェックしていない状態でした。その中で今月取り上げる曲はアトランティック・スターの「オールウェイズ」です。アトランティック・スターといえばこの曲しか思い浮かばず、私から見ると完全な「一発屋」なのですが、今になって調べてみると1976年デビューで、「オールウェイズ」の全米1位ヒットまでに6枚のアルバムと26枚のシングルをリリースしていることに驚きました。1985年には全米3位のシングルもリリースしており、その時に知っていても不思議ではないのですが、その頃の私はフュージョンの時代で、きっと見逃してしまったのでしょう。で、今回取り上げた「オールウェイズ」ですが、典型的なデュエットのラブソングで、6月のヒット曲らしくジューンブライドにお似合いの曲です。まぁもちろん私には無縁でしたが…。サビの部分で男女のボーカルがユニゾンになったりハモったりする曲で、男性の副旋律の方を歌っていると、私などはどうしても主旋律に引っ張られて、そっちを歌ってしまうというよくある現象が起こります。この曲の私の一番のお気に入り部分は、アルバムヴァージョンだけにある間奏部分。ホルンと思われる管楽器が入り、70年代のバートバカラック的な感じを覚えます。
最後に、例によってチャートのおさらいをしておきます。アトランティック・スターの「オールウェイズ」は1987年6月13日付のビルボードHOT100で、前週1位のキム・ワイルドの「キープ・ミー・ハンギング・オン」に代わって1位に立ちました。ちなみに「キープ・ミー・ハンギング・オン」は、スープリームスのカヴァーで、スープリームスも1966年11月19日付ビルボードHOT100で1位となっており、20年の時を超えていずれも全米1位という珍しい記録でした。閑話休題、「オールウェイズ」は翌週には首位をリサリサ&カルト・ジャムに首位を明け渡しており、当時のヒットチャートにおいては典型的なラヴ・バラードはヒットが長続きしないという傾向を表しています。
1987年7月11日付
第1位 Alone - Heart
大学3年生の夏休み前の1987年7月は、翌月の8月終わりから9月初めにかけて予定していた北海道ツーリングに向けて、下調べを重ねる日々でした。そんななか気晴らしに富士の裾野をバイクで走っていたところ、東富士演習場周辺でミニ北海道のような雄大な風景が広がり、まだ見ぬ北の大地に思いを馳せました。当時は買ったばかりのバイク「スズキRG125γ」が嬉しくて、暇があるといろんなところに走りに行ったものでした。今回はその頃にヒットしていたハートの「アローン」を紹介したいと思います。
ハートの「アローン」といえば、私の中では冬のイメージの曲でしたので、真夏のヒットだったというのはちょっと意外でした。ピアノで始まるイントロ、そして最初は静かな曲調ですが、サビから間奏へと盛り上がり、迫力のギターソロ、そしてまた静かに終わっていくというドラマチックな展開の曲でした。これはまさにプログレハードの方程式で、そんなところが冬の雨に打たれて丘の上に立つというイメージを持った理由だと思います。ハートの他の曲はまったく知りませんが、この曲に関しては大好きな曲のひとつです。
「アローン」は1987年7月11日付のビルボードHOT100で第1位となり、その後7月25日付チャートまで3週連続で全米1を守りました。そのころのチャート上位は、後に全米1位となるボブ・シーガーの「シェイクダウン」や、前週に1位だったホイットニー・ヒューストンの「素敵なサムバディ」などが並んでいました。前者は映画「ビバリーヒルズ・コップU」の挿入曲として彼自身唯一の全米トップシングルとなりました。後者は現在でも破られていない7曲連続全米1位という金字塔のうちの1曲で、ちょうど真ん中である4曲目の全米トップシングルでした。
1987年8月8日付
第2位 I Want Your Sex - George Michael
大学3年生の夏休みというと、長い人生の中で最後のヴァケイションという感じがします。翌年の夏休みは就職活動や卒論のプレッシャーがあり、社会人になれば長期休暇など望むべくもありません。リタイア後は、それこそ毎日がホリデーですから、もはやヴァケイションではありません。さてその夏休みの前半はバイトに明け暮れ、バイト期間が終わった8月20日以降は「夕焼けニャンニャン」のラストウィークに傾注し、夕ニャン最終回の放送中にはバイクで青森県内を走っていました。おニャン子クラブの解散がその年の6月に発表され、「夏休みの夕方は毎日見よう」と思っていた夕ニャンは、テレビ静岡だけ夏休み特別企画のアニメ「タッチ」に差し替えられ相当なショックを受けました。しかし夕ニャン最終週に奇跡的にネットが復活し、無事に最終回も(北海道旅行後にビデオで)見ることができました。というわけで1987年の8月は、夕やけニャンニャンと北海道へのツーリングが思い出深いのですが、そのころにジョージ・マイケルの「フェイス」が発表され、アルバムのリリースに先行して今回紹介する「アイ・ウォント・ユア・セックス」がシングルカットされました。
昨年暮れに亡くなったジョージ・マイケルは、1986年にワム!を解散しソロとなりました。ワム!時代の初期は「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」に代表される、ポップでキャッチーないわゆるチャラい曲をヒットチャートに送り込んでいましたが、その後「ケアレス・ウィスパー」や「ラスト・クリスマス」がリリースされると、私のジョージ・マイケルに対する見方が変わっていきました。そしてアルバム「フェイス」では、その音楽性の豊かさに目を見張りました。まぁその後、公衆わいせつ罪で逮捕されるに至り、私の中での評価はがた落ちとなりましたが。。。それはさておき、名作「フェイス」の中で最もおちゃらけ側に振った曲が「アイ・ウォント・ユア・セックス」で、当時そのまんま「セックス」という言葉をタイトルに織り込んだ曲は無かったので、ずいぶん興味が湧きました。歌詞の内容としてはマーヴィン・ゲイの「セクシャル・ヒーリング」の方がより際どい感じがしますが、当時のFM東京では放送禁止とされたようです。まぁ確信犯だったと思いますが…。
それではチャートを振り返っておきます。「アイ・ウォント・ユア・セックス」は1987年8月8日付のビルボードHOT100で最高位の第2位となり、その後にリリースされるアルバム「フェイス」のヒットにつなげました。その週の1位は、おばけアルバム「ヨシュア・トゥリー」からのシングルカットであるU2の「終わりなき旅」でしたが、第3位にボブ・シーガーの「シェイクダウン」が入っています。「アイ・ウォント・ユア・セックス」にしろ「シェイクダウン」にしろ映画「ビバリーヒルズ・コップU」の挿入曲としてヒットしており、この映画の強さとともに、それを抑えてトップに立ったU2の強さがわかります。ちなみに第5位にはスザンヌ・ヴェガの「ルカ」がランクインし、この曲と「アイ・ウォント・ユア・セックス」のどちらを今月紹介するか迷いました。「ルカ」ならばもっと上品なコーナーであったでしょう。
1987年9月26日付
第1位 Didn't We Almost Have It All - Whitney Houston
2週間の旅を終え北海道から戻り、おニャン子クラブも解散し、夏休みも残り少なくなり、ちょっと物悲しいムードが漂った1987年の9月。おニャン子ブームが一段落したということで、私の音楽趣味は再び全米チャートに向かいました。この後から大学卒業までが人生最後の洋楽との蜜月期となるわけですが、この頃に流行った楽曲の中でもかなり思い入れの強い曲である、ホイットニー・ヒューストンの「恋のアドバイス」を取り上げたいと思います。
実際にこの曲がヒットしてから半年後、私はSpring Tour用の1本目のテープを作成し、収録曲の中でも重要な曲のひとつとしてこの曲を位置づけました。やわらかな日差しを連想させるこの曲のイントロは、もちろん秋に聴くのもいいのですが、むしろ春に相応しいと判断したのだと思います。またホイットニー・ヒューストンの圧倒的な歌唱力はこの曲でも健在で、後半部での盛り上がりはこのヴォーカルでなくてはと思い知ります。この盛り上がりで、思わずサビの部分の歌詞を「ディーデウィ・オーモス・ハービロー」と口ずさんでしまうほどです。おそらく私の歌を英語圏の人が聞いても、何を歌っているのかさっぱり分からないでしょうが…。
それでは当時のチャートを振り返っておきます。「恋のアドバイス」は1987年9月26日付のビルボードHOT100で全米1位を獲得し、翌週の10月3日付チャートでも1位をキープし、2週連続のナンバーワンヒットとなりました。もちろん前人未踏の7曲連続全米シングルチャート1位の曲のひとつで、今は亡き彼女自身の絶頂期の曲でもありました。ところで、この週のチャートを振り返ると全米1位曲が目白押しです。3位には前週まで1位だったマイケル・ジャクソンとサイーダ・ギャレットのデュエット曲「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」、5位にはこの後10月17日付で1位となるリサ・リサ・アンド・カルト・ジャムの「ロスト・イン・エモーション」がチャートインしていました。また8位には9月12日付まで1位だったロス・ロボスの「ラ・バンバ」が残っていました。他にも1位曲が10位以内に入っているのですが、私がお気に入りだったのは、その中で1位になれなかった曲であるバナナラマの「アイ・ハード・ア・ルーマー」でした。当時流行りのストック・エイトキン・ウォーターマンによるユーロビートで、キャッチーなところに当時若かった私はコロリといってしまいました。
1987年10月24日付
第1位 Bad - Michael Jackson
1987年の私自身の変化といえば小型自動二輪の免許を取り、RG125ガンマというバイクを手に入れたことでしょう。そのバイクにまたがり、夏の終わりに北海道へツーリングに出掛けたことが、この年の最大の出来事だったわけですが、それ以外にもちょこちょこ遠乗りに出掛けています。ちょうど30年前の10月の終わりに、東京で下宿していたボート部時代の仲間のもとへバイクで行っています。その時に渋谷だったか新宿だったかで飲んだのですが、ちょうどハロウィンの土曜日で街は浮かれまくっており、その時に初めて現在につながる大都会のハロウィンというイベントを目にしたのでした。翌日は国立競技場でラグビーの日本代表対ニュージーランド代表のテストマッチを観戦。ラグビーブーム真っ盛りの中、4-106という歴史的な大敗を目撃したのでした。その時に都心一帯でガンガンかかっていたのが今回紹介するマイケル・ジャクソンの「バッド」です。
前作のアルバム「スリラー」は全世界で6,600万枚以上も売り上げ、史上最も売れたアルバムでした。それから5年を経てニューアルバムがリリースされ、ファーストシングルの「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」は全米第1位を獲得する大ヒット。そしてマイケル・ジャクソンらしいPVをひっさげて、この「バッド」がリリースされました。タイトルチューンでもあり国内の数々のメディアでも取り上げられ、特に「みなさんのおかげです」のパロディPVは秀逸なものでした。曲調としては「ビリージーン」や「スリラー」の流れを組むポップでキャッチーなナンバーで、さすが「キング・オブ・ポップ」のマイケル・ジャクソンらしいのですが、反面、露出過剰ゆえにすぐに飽きてしまいました。アルバムとしての「バッド」が大ヒットしたものの「スリラー」ほど売れなかった(セールスは半分程度)のは、一般大衆の飽きが原因だったような気がします。
それでは例によってそのころのチャートを振り返っておきます。「バッド」は1987年10月24日付のビルボードHOT100で全米1位を獲得しました。翌週の10月31日付チャートでも1位をキープしたのですが、11月第1週のチャートでは首位を滑り落ち、結局2週連続の全米1位を記録したにすぎません。もちろん大ヒットには間違いないのですが、「ビリージーン」が7週連続全米1位を記録したことを思うと少し物足りなさを感じてしまいます。同じ週の2位はマドンナの「コージング・ア・コモーション」、3位はプリンスの「ユー・ゴット・ザ・ルック」でしたが、2人とも「スリラー」以降に大ブレークし、マイケル・ジャクソンと同じような土俵で戦っている人たちですので、5年の間にまわりのプレイヤーが変わり、王様のマイケル・ジャクソンといえども安穏としていられなくなったのではと考えます。
1987年11月14日付
第6位 Breakout - Swing Out Sister
前月の1987年10月に続いて11月にもバイクで遠乗りに出掛けています。中学の頃より洋楽と鉄道で共通の趣味があった親友の下宿に泊まりに行っています。これが京都府の亀岡ということで、東海道を下り、鈴鹿峠を越えて国道1号線を走り続けるという、修行のような単独ツーリングでした。既に木枯らしの吹く季節でしたので、寒さが身に染みる行程でした。先月も触れましたが、こうしてみると1987年はバイクで始まり、バイクで終わった年だったと改めて感じます。さて、11月というそんな澄み切った青空の季節に相応しい曲が、そのころの全米チャート上位の中に1曲ありました。それが今回紹介するスイング・アウト・シスターの「ブレイクアウト」です。
スイング・アウト・シスターといえば、世界的にヒットしたこの曲の他に1996年の「あなたにいてほしい」が有名ですが、書き下ろしのドラマ主題歌ということで、日本だけのドメスティックヒットという位置づけになっています。「あなたにいてほしい」は私にとっては夏の終わりの定番ソングですが、「ブレイクアウト」は歌詞やPVの内容から(特に女性にとっての)応援歌という感じがします。音のヌケが良いブラスセクションを効果的に使っていますので、季節の良いこんな時期には屋外でダンスしようかという気にさせる曲調です。そして聴きどころは後半部。サビのメロディを次々に展開して盛り上がっていくのですが、こんな曲をうまく歌えたら気持ちいいだろうなぁといつも思います。
さて、それでは当時のチャートアクションを触れておきましょう。「ブレイクアウト」は1987年11月14日付ビルボードHOT100で最高位6位を記録し、翌週もその順位をキープしています。スイング・アウト・シスターにとっては唯一の全米トップ10ヒットとなりました。おそらく日本以外では「ワン・ヒット・ワンダー(一発屋)」と思われているかもしれません。その他の上位曲を挙げると、まず1位はティファニーの「ふたりの世界」でした。ティファニーやデビー・ギブソンなどのガールズポップが上位に並んでくると80年代も終盤という感じがします。で、2位がビリー・アイドルの「モニー・モニー」、3位がビル・メドレーとジェニファー・ウォーンズの「タイム・オブ・マイ・ライフ」、4位がフリートウッド・マックの「リトル・ライズ」ということで、来月紹介する5位の曲まですべてエアチェックしています。このころになると「おニャン子」を脱皮して、全米チャートに完全復帰していることがよく分かります。
1987年12月5日付
第1位 Heaven Is A Place On Earth - Belinda Carlisle
1987年の12月、いよいよ大学時代で最も思い出深い曲が登場します。それはベリンダ・カーライルの「ヘブン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」。この曲がリリースされた当時、「ベリンダ・カーライルって何者?」とも思いましたが、ゴーゴーズのボーカルと知って納得しました。80年代前半のゴーゴーズは、「ウィ・ガット・ザ・ビート」で女性バンド初の全米トップシングルを出すなど相当に知られた存在でしたから。で、彼女の2枚目のアルバムから、今回紹介する「ヘブン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」というビッグヒットが飛び出すわけです。そしてこの曲が翌年初夏にJR東海のCMで使用されたのがきっかけで思い出の曲となりました。その頃の私は就職活動のため新幹線で西に東に移動を繰り返しており、新幹線のCMと自分をオーバラップさせて出口の見えないトンネルを走っていたのです。
私が「ヘブン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」が好きな理由はたくさんありますが、その中でひとつ挙げるとすると、2コーラスめ終了から先の部分にあります。直後の間奏は平和な天国の様相、一転雷鳴轟くような展開を経て転調、そしてコーダへと、ドラマティックに曲が終わっていきます。間奏部分でのベリンダのボーカルは、私が好きなスティービー・ニックスばりのダミ声で、これまたテンションが上がる部分です。曲がリリースされたころ乗っていた100系新幹線が引退して、はや5年半となりました。今でも時折流れるこの曲を聴くと、私はバブル時代といいながら、なかなかそのおこぼれを貰えなかった若くてほろ苦い時代を思い出します。
それでは最後にチャートアクションを見ておきましょう。「ヘブン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」は1987年12月5日付ビルボードHOT100で第1位になりました。翌週にはジョージ・マイケル最大のヒット曲「フェイス」に1位の座を譲り「三日天下」ならぬ「一週天下」となりました。それでもフォリナーのように10週も2位を続けるより、1週でも1位になった方が後々に役立つのは世の習いです。おそらくベリンダも「全米1位シンガー」としてショーなどの出演料はべらぼうなんでしょう。その他、この週のチャートで注目すべき点は、スティングのアルバム「ナッシング・ライク・ザ・サン」からのファーストシングル「ウィル・ビー・トゥギャザー」が7位に、また1982年リリースのスティーヴ・ウィンウッドの「青空のヴァレリー」がリミックスされ、この週が14位、最高位9位とリバイバルヒットしました。

2018年版へ
2016年版へ
目次へ