30 Years Ago Now And Then
2019

    
1989年1月7日付
第13位 Silhouette - Kenny G
1989年1月7日昭和天皇が崩御され、昭和という時代が終わりました。一週間前に昭和63年の大晦日があったばかりでしたが、その日1月7日は、また大晦日のような感じになり、テレビ番組は「昭和を振り返る」的な番組ばかりだったのを思い出します。そして夕刻に小渕官房長官が「平成」と書かれた額を掲げ、翌日から平成元年が始まりました。たった7日しかなかった昭和64年の最後の日は、そんな一日でした。30年前は平成最初の正月を過ごしていましたが、30年を経た今は平成最後の正月を過ごしていることを思うと、感慨深いものがあります。
さて、昭和最後の日となった1989年1月7日付のビルボードHOT100で、最高位13位にランクインした曲を今回紹介します。その曲はケニーGの「シルエット」。目覚めに聞くと爽やかに一日を始められそうな曲です。ケニーGといえば、前作のアルバム「デュオトーンズ」からシングルカットされた「ソングバード」が、ビルボードHOT100で4位まで上昇し、インストゥルメンタルの曲としては異例のヒットとなりました。「ソングバード」ほどではないですが、「シルエット」も最高位13位ですので、こちらも大ヒットといえるでしょう。ちなみにケニーGは30年経った今でも人気があり、今月、5年ぶりの日本公演で来日します。
ではいつものとおりチャートを振り返ります。前述の1月7日付チャートの第1位は、ポイズンの「エブリ・ローズ・ハズ・イッツ・ソーン」。第2位は翌週の1月14日付チャートで1位となるボビー・ブラウンの「マイ・プリロガティブ」。そして第3位は翌々週の1月21日付チャートで1位となるフィル・コリンズの「トゥー・ハーツ」でした。1989年1月は毎週1位が変わる、入れ替わりの激しいチャートでした。そして翌2月は、いよいよ大学卒業を目前に控え、私の思い出深い曲が登場します。どうぞお楽しみに…。
1989年2月25日付
第2位 Lost In Your Eyes - Debbie Gibson
1989年1月上旬に卒業論文を提出した後、2月6日夜に九州に旅立つまで、何をしていたかさっぱり思い出しません。当時の日記を読むと、卒論で協力していただいた学生さんの授業に結果発表に行っていたりもしますが、ほとんど毎日ごろごろとテレビやビデオを見ていたのが実情で、一生のうちで最も非生産的な日々を過ごしていました。一転2月は延べ12日間の九州卒業旅行や、そこから帰ってきて中4日で、大学の仲良し4人組による3日間の伊豆大島旅行と、だらけていた1月を取り返すようなアクティブな日々を過ごしていました。今回は学生時代のクライマックスを迎えた2月から3月にかけて、本国アメリカのみならず、日本でも大ヒットしていたデビー・ギブソンの「ロスト・イン・ユア・アイズ」を取り上げます。
この曲を聞いて、真っ先に思い出すのが、会社の帰りにカーラジオで聞いた全米カウントダウン番組です。3月に入って早々に、私はアルバイトで、内定していた会社で働くことになりました。たまたま家のクルマが空いていた時には、職場である天竜のバス営業所までクルマで往復していました。カーラジオから流れる、その頃のカウントダウン番組の最後の曲は、決まって「ロスト・イン・ユア・アイズ」でした。その後、3月も下旬となり、好きだったPさんに大学の卒業式で「浜松でいい子をみつけてね」とフラれた後に聞いたこの番組でも、最後にかかったのは「ロスト・イン・ユア・アイズ」。ちょっとせつないメロディと歌詞は、ほろ苦い学生時代を締めくくるのに相応しい曲でした…。
では当時のチャートを振り返ります。デビー・ギブソンの「ロスト・イン・ユア・アイズ」は、1989年2月25日付チャートでは第2位でしたが、翌3月4日付チャートで首位に躍り出ると、3月18日付チャートまで3週連続でトップを守りました。どうりで毎週この曲が最後にかかるはずです。2月25日付チャートに話を戻しますが、その週の1位はポーラ・アブドゥルの「ストレイト・アップ」。3位以下はトーン・ロックの「ワイルド・シング」、シーナ・イーストンの「ラヴァー・イン・ミー」、ボン・ジョビの「ボーン・トゥ・ビー・マイ・ベイビー」と有名どころが続きますが、いずれも印象に薄く、いかに当時の私がデビー・ギブソンの名曲に心を奪われていたかが分かります。
1989年3月25日付
第2位 Eternal Flame - Bangles
先月の続きのエピソードになりますが、1989年3月21日の大学の卒業式の日にフラれ、卒業式後の謝恩会ではカラ元気を出してハイテンションになり、宴の内容をまったく覚えていません。夜になり、みんなとの別れを惜しんだ後、浜松行きの普通列車の中で一人になると、涙が溢れてきました。大井川を渡り、金谷駅に向かって大きな右カーブを走っていると、金谷の街の灯が回りながら近づいていきます。背景に流れる曲は、サミー・ヘイガーとニール・ショーンがカバーした「青い影」。ちょうどニール・ショーンのギター・ソロが佳境に入るところでした。…というのが当日の思い出なのですが、どうもこの記憶は、より美しい方向に上書きされているのではないかと、このごろ思うようになりました。当日、ヘッドホンステレオで聞いていたテープは判明していて、該当部分はB面の24分から25分あたりです。一方で、静岡から金谷まで当時の鈍行で30分かかっていました。電車に乗った時にB面を聞き始めたとして、おそらく該当部分は島田に到着する前に流れてしまい、都合よく、私のお気に入り区間で、お気に入りの曲の一部分がちょうど流れるわけがないという結論に至ったわけです。
さて卒業式が終わると、入社式に先立って4月以降の配属先で働いていることもあり、新社会人としてのスタートを意識せざるを得ません。その時に流行っていたのが今回紹介するバングルスの「胸いっぱいの愛」です。80年代後半に元気あふれる曲でヒットを連発していた彼女たちですが、この曲に限っては静かなバラードでした。曲の終盤にかけて盛り上がって行く部分で、コーラスにエコーをめいっぱいかけて壮大な雰囲気になっているところがありますが、当時の私は、この部分に「新たな生活のスタート」を投影していました。今でも普段の生活でたまたま日の出を見たりすると、この曲のこの部分をイメージしてしまいます。日の出=新生活の夜明け〜こんな連想でしょうか…。
それでは30年前の3月のチャートを振り返ります。バングルスの「胸いっぱいの愛」は、1989年3月25日付チャートでは第2位でしたが、翌4月1日付チャートで1週のみトップとなりました。3月25日付チャートの1位は、マイク・アンド・ザ・メカニックスの「リヴィング・イヤーズ」で、先週までトップだったデビー・ギブソンの「ロスト・イン・ユア・アイズ」に代わって1週だけ全米1位を獲得しました。3位以下は、後にグラミー賞を剥奪されたミリ・ヴァニリの「ガール・ユー・ノー・イッツ・トゥルー」、後に全米1位を獲得したロクセットの「ザ・ルック」、まだまだヒット連発のロッド・スチュワート「キャント・テル・ミー・ノー」となっていましたが、もはや音楽漬けの生活とはほど遠く、バングルス以外はどんな曲だったか覚えていません。
1989年4月15日付
第24位 Orinoco Flow - Enya
1989年4月1日に入社式があり、3月からアルバイトの身分で働いていたとはいえ、社員として働きだすといろいろと指導を受けることが多くなりました。学生時代の感覚で上司や先輩方に接すると、「加藤は態度が悪い」とか「少なくとも所属長にはちゃんとした言葉遣いをしろ」などと言われました。とはいえ、そこは会社の中でも最も山間部に近い部署でしたので、外回りに行くと言っては、若葉が萌えるワインディングロードをドライブして気晴らしをしたりしていました。今回紹介する曲は、そんな大自然の中で聞きたいエンヤの「オリノコ・フロウ」です。
この曲は、私が今まで聞いたことがない独自の曲調で、新生活を始めたばかりの自分に見事にはまりました。彼女自身はアイルランド出身ということで、ケルト音楽に影響を受けているのですが、この曲のタイトルは南米の大河「オリノコ川」にちなんでおり、ここだけをとってもワールドワイドな感覚が垣間見えます。ところで2005年の5月に天皇皇后両陛下がアイルランドを訪問したおり、ダブリン市長公邸でのレセプションに皇后陛下の希望でエンヤを招待したというエピソードが残っています。平成が始まったばかりの頃にヒットした「オリノコ・フロウ」が、天皇皇后両陛下のお気に入り(?)の曲で、ちょうど平成という時代が終わる今月に紹介できてちょっとできすぎでしょうか。。。
それではいつものとおり、当時のチャートを振り返ります。エンヤの「オリノコ・フロウ」は1989年4月15日付ビルボードHOT100で最高位24位を記録しました。その週の1位はファイン・ヤング・カニバルズの「シー・ドライヴズ・ミー・クレイジー」で、彼らの名前を聞くと「80年代も終わりだな」という感じがします。2位はロクセットの「ザ・ルック」で、3位は来月紹介する曲ですので、ここでは公表を差し控えたいと思います。では来月をお楽しみに…。
1989年5月6日付
第1位 Like A Prayer - Madonna
いよいよ令和元年が始まりました。今回は、ちょうど30年前の平成元年5月のヒット曲を紹介します。ゴールデンウィークというと地元では浜松まつりが盛り上がるのですが、30年前には初めて仕事で浜松まつりに関わっています。主には凧揚げ会場のバス乗り場で、乗客案内をしていましたが、当時のまつり参加者は気が荒い人が多く、対応でまごまごしているとどやしつけられたものです。
仕事をしているとラジオで洋楽を聞く暇がなくなり、当時のビルボードチャートの上位の曲は、ほとんど分からない状態となってしまいました。そんな状況ですが、テレビのCMソングに使われた曲は耳に残っており、今回紹介するマドンナの「ライク・ア・プレイヤー」もそんな洋楽のひとつです。マドンナのシングル曲の中では最もヒットした曲のひとつであり、マドンナらしいダンサブルな部分と、対照的にリズム隊を排して歌い上げる部分の組み合わせが印象的な曲となっています。
それではチャートアクションを振り返ります。マドンナの「ライク・ア・プレイヤー」は1989年4月22日付ビルボードHOT100で第1位に上昇し、そのまま5月6日付チャートまで3週連続で首位を守りました。その5月6日付チャートの上位を挙げると、2位はボン・ジョビの「アイル・ビー・ゼア・フォー・ユー」、3位はジョディ・ワトリーの「リアル・ラヴ」でした。また6位には、「セカンド・チャンス」という楽曲で、久々に38スペシャルがランクインしているのが興味深いところです。
1989年6月10日付
第1位 Wind Beneath My Wings - Bette Midler
1990年代の洋楽の大ヒット曲にホイットニー・ヒューストンの「オールウェイズ・ラヴ・ユー」という曲があります。いうまでもなく映画「ボディー・ガード」のテーマ曲として有名ですが、この曲がもともとドリー・パートンが歌うカントリーソングだったということは、あまり知られていません。そしてこの曲にインスパイアされて、今回紹介する「愛は翼にのって」が作られたというのは、この曲のことを今回調べて初めて知りました。その後1983年にゲイリー・モリスのカントリー・ヴァージョンがヒットし、1989年にベット・ミドラーがバラードとして歌って(しかも映画の挿入歌として)大ヒットするという流れは、「オールウェイズ・ラヴ・ユー」とそっくりのストーリーです。
ベット・ミドラーといえば、私ならすぐ「ザ・ローズ」を思い浮かべてしまいますが、この曲よりも「愛は翼にのって」の方がヒットし、リリース翌年のグラミー賞の主要部門、すなわち「レコード・オブ・ザ・イヤー」と「ソング・オブ・ジ・イヤー」の2部門を獲得しました。エミー賞、ゴールデングローブ賞、トニー賞をそれぞれ複数回受賞し、アカデミー賞にもノミネートされる大女優ですが、この曲の後半でも披露している伸びやかなヴォーカルを聞くと、天が二物を与えた特別なアーティストだと感じます。
それでは、いつものとおりチャートを振り返っておきましょう。ベット・ミドラーの「愛は翼にのって」は1989年6月10日付ビルボードHOT100で第1位に立ったのですが、翌週にはニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックの「アイル・ビー・ラヴィング・ユー」にその座を渡してしまいました。この週の上位には、この2曲のほか、ボビー・ブラウンの「エヴリ・リトル・ステップ」、マイケル・ダミアンの「ロック・オン」、ネナ・チェリーの「バッファロー・スタンス」が並んでいますが、ベット・ミドラー以外はポッと出の馴染のないアーティストばかりで、全く記憶にない曲ばかりです。
1989年7月8日付
第7位 Miss You Like Crazy - Natalie Cole
昨年の春に私はタバコをやめたのですが、タバコを吸い始めたのは人よりも遅く、大学卒業後の社会人になってからです。社会人1年目は禁煙派だったのですが、2年目に本社に異動になったのがきっかけで、タバコを吸うようになりました。当時は、タバコに対して社会が寛容で、事務所のデスクでタバコが吸い放題。異動した職場の先輩方は、タバコを吸う人ばかりで、結果的に私も喫煙するようになりました。直接的には以上の理由ですが、間接的な原因は当時のタバコのCMがカッコ良かったこともあります。特に「パーラメント」のCMは秀逸でした。ボビー・コールドウェルらのAORに乗せて、ニューヨークあたりの都会の景色をバックに、長塚京三さんの「自由とやすらぎの香り、アメリカン・ブルー」とナレーションが入るやつでした。今回紹介するナタリー・コールの「ミス・ユー・ライク・クレイジー」も、そんなパーラメントのCMに使われた楽曲です。
ナタリー・コールはご存知のとおり、ナット・キング・コールの娘で、1991年には「アンフォーゲッタブル」という楽曲で、既に亡くなっていた父とのデュエットを、オーバーダビングによって録音し、翌年のグラミー賞「ソング・オブ・ザ・イヤー」に輝きました。で、「ミス・ユー・ライク・クレイジー」ですが、彼女の伸びやかなヴォーカルが魅力的です。それにも増して曲の構成が秀逸で、転調後の盛り上がりは最高です。そんなわけで、私にとっては1989年のもっともお気に入りの曲となっています。翌1990年の9月に、尾道のホテルのトップバーで、この曲を聞きながらパーラメントをくゆらした思い出は、今でも鮮明に残っています。
ではいつものとおり、当時のチャートを振り返っておきます。ナタリー・コールの「ミス・ユー・ライク・クレイジー」は1989年7月8日付ビルボードHOT100で最高位7位を記録し、翌週もその順位をキープしました。その週の1位はファイン・ヤング・カニバルズの「グッド・シング」、2位はミニ・ヴァニリの「ベイビー・ドント・フォーゲット・マイ・ナンバー」、3位はシンプリー・レッドの「イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ」でした。トップ20あたりには、シンディ・ローパーやドゥービー・ブラザーズ、あるいはスティーヴィー・ニックスやロッド・スチュアートがランクインしており、先月よりはお馴染みの顔ぶれが揃っていました。
1989年8月12日付
第1位 Right Here Waiting - Richard Marx
物心がついてから初めてまとまった休みのない夏を過ごした30年前の8月でしたが、バスガイドさんたちとナガシマスパーランドに行ったり、同期の仲間たちとBBQをしたりと、それなりに夏を満喫していました。当時流行っていた音楽で記憶に残るのは邦楽ばかりで、洋楽とはかなり距離を置いた生活をしていたのですが、リチャード・マークスの「ライト・ヒア・ウェイティング」はよく耳にしました。今月はこの曲を取り上げようと思います。
リチャード・マークスは1963年生まれなので、ほぼ私と同世代なのですが80年代後半には飛ぶ鳥を落とす勢いでした。パッと思いつく曲だけでも「シュッド・ハヴ・ノウン・ベター」や「ホールド・オン・トゥ・ザ・ナイツ」などが挙がり、ストレートなロックからバラードまで売れ線の曲を量産していました。その中でも最大のヒットが「ライト・ヒア・ウェイティング」で、ピアノのイントロが耳に優しい、自分好みの曲でした。まぁ、この曲を境にパッタリと勢いが無くなるのですが…。ヒット曲が出なくなった彼は、プロデューサー業に活路を見出し今に至ります。
それではいつものとおり当時のチャートを振り返っておきます。リチャード・マークスの「ライト・ヒア・ウェイティング」は1989年8月12日付ビルボードHOT100で全米1位となり、8月26日付チャートまで3週連続ナンバーワンを記録しました。その週の2位は、映画「ゴーストバスターズU」の主題歌であるボビー・ブラウンの「オン・アワー・オウン」、3位は、その前の週の1位だったプリンスの「バット・ダンス」で、こちらも映画「バットマン」の主題歌でした。まだまだ映画とのタイアップ曲が強い80年代の傾向を反映しています。
1989年9月2日付
第9位 The End of the Innocence - Don Henley
1989年9月28日にTBS系列の歌番組である「ザ・ベストテン」が終了しました。このコーナーではビルボード・チャートを追っかけていますので、当然掲載される曲も洋楽ばかりですが、もちろん日本の歌謡曲やポップスも思い出の中にあります。「ザ・ベストテン」が始まった1978年は百恵さんの全盛期のころで、ロック路線の宇崎夫妻の曲を歌っていて、それらの曲にかなり感化されました。またゴダイゴや原田真二さんのような、ロックバンドあるいはシンガーソングライターという職業を知ったのも「ザ・ベストテン」からでした。大学の頃には下宿のすぐ近くの日本平からの生放送もあったのですが、もうその頃には私自身は「ザ・ベストテン」という番組自体に興味がなくなっていました。ですので最終回も見たのかどうか忘れてしまいました。ネットによると最終回の1位は工藤静香の「黄砂に吹かれて」だそうです。
さて、そんな1989年9月に流行っていた洋楽で、唯一お気に入りだったのが今回紹介するドン・ヘンリーの「エンド・オブ・ジ・イノセンス」です。イーグルス解散の直前にドン・ヘンリーのヴォーカルに惹かれ、彼のソロ・シングルのいくつかはこのコーナーでも紹介しています。それらのシングル曲と比べても、この「エンド・オブ・ジ・イノセンス」はいい曲だと思います。それはピアノの名手であるブルース・ホーンズビーとの共作であるということが大きいのですが、このピアノにドン・ヘンリーのしわがれ声が絡んで、絶妙な味わいを醸します。1986年12月のチャートを取り上げた時にも同じことを書いているのですが、真夜中にウィスキーのロックをちびちび飲みたくなる曲です。
では例によって当時のチャートを振り返っておきます。ドン・ヘンリーの「エンド・オブ・ジ・イノセンス」は1989年8月26日付ビルボードHOT100で最高位8位を記録し、今回取り上げた9月2日付チャートではワンランクダウンの9位となっていました。その週の1位はポーラ・アブドゥルの「コールド・ハーティッド」、2位は先月紹介したリチャード・マークスの「ライト・ヒア・ウェイティング」、3位はニューキッズ・オン・ザ・ブロックの「ハンギン・タフ」でした。この週のチャートでちょっと注目したいのが、4位のグロリア・エステファン。マイアミ・サウンド・マシーンとして80年代後半にヒットを飛ばしていましたが、この曲からソロ名義となり同年9月16日のチャートで全米1位となっています。やはりアメリカでのラテン・ミュージックの人気は根強いものがあります。
1989年10月7日付
第74位 We Could Be Together - Debbie Gibson
1989年10月の出来事で印象深いのは、プロ野球の日本シリーズでした。当時の私は、ゴリゴリの巨人ファンだったのですが、その年の日本シリーズは初戦から近鉄に3連敗して、崖っぷちの状態に追い込まれました。ところが3戦目に勝ち投手となった加藤哲郎選手の、いわゆる「巨人はロッテより弱い」騒動があり、その後巨人が4連勝して日本一となるというドラマがありました。その日本シリーズが行われている最中に、私は人生初めての添乗で山代温泉に出張しており、日本シリーズの結果に一喜一憂していたことを思い出します。
さて当時の洋楽ヒット曲ですが、今月は第74位の曲を紹介します。それはデビー・ギブソンの「ウィ・クッド・ビー・トゥギャザー」です。全米1位を獲得した「ロスト・イン・ユア・アイズ」も収録されている「エレクトリック・ユース」のリード・シングル的な曲だったのですが、シングルとしては振るわなかったようです。キャンプ・ファイヤの場で唄うのにお似合いな元気な曲調で、当時の上り詰めた日本にぴったりの曲でしたので、どこの会社か忘れましたが、CMソングにも採用されたと思います。ただし大ヒットした「ロスト・イン・ユア・アイズ」とは真逆の雰囲気でしたので、ファンがついていけなかったのかもしれません。
それでは当時のチャートを振り返りましょう。デビー・ギブソンの「ウィ・クッド・びー・トゥギャザー」は1989年9月30日付ビルボードHOT100で最高位71位を記録し、今回取り上げた10月7日付チャートでは3ランクダウンの74位となっていました。その週の1位はジャネット・ジャクソンの「ミス・ユー・マッチ」、2位はマドンナの「チェリッシュ」で、新旧女性ヴォーカルの一騎打ちとなっていました。本来なら、この2人にデビー・ギブソンが割って入りたいところでしたが、この2人に対しては力不足だったようです。
1989年11月25日付
第22位 Rhythm Nation - Janet Jackson
今年2019年は、私が社会人になった年である1989年からは30年ですが、中学生になった年である1979年から40年経過の年です。1979年の秋の番組改編により、SBSラジオでクンちゃんがDJを務める「ポピュラーベストテン」が始まり、一気に洋楽の扉が開いたのがちょうど40年前となります。中学1年生だった私は、部活からの帰り道、茜色に染まる空を背にしながら「めざせモスクワ」を歌いながら帰るという生活をしていました。時代は流れ、それから10年後の1989年11月には、三谷温泉の今は無き「ふきぬき」で2泊3日の旅程管理者研修を受けた記憶があります。新入社員の頃に、泊りがけで同期の仲間と研修を受けるのは、全然苦痛ではなく、むしろ楽しい思い出です。
さて、来月でこのコーナーは終了となりますが、今回紹介する曲は、ジャネット・ジャクソンの「リズム・ネイション」です。実は来月紹介する曲よりも後に、ビルボードで最高位を記録しています。このコーナーの最後に紹介したい曲があるため、大人の事情で今月紹介することになりました。この曲がヒットした当時は、この曲がJALのCMに使用され、本人もそのCMに出演していたので、日本国内でもかなり浸透していた楽曲でした。また、昨年まで放送されていた「みなおか(みなさんのおかげです〜みなさんのおかげでした)」でPVのパロディが放映されていたのも思い出されます。ゴリゴリのダンスナンバーで、バブル景気に酔っていた当時の日本の風潮にぴったりの曲調でした。
それではいつものように当時のチャートを振り返ります。ジャネット・ジャクソンの「リズム・ネイション」は、チャート登場3週目の1989年11月25日付のビルボードHOT100で早くも22位まで順位を上げていました。そして翌年1990年1月6日付と同13日付のチャートで連続2位を記録しています。一方、1989年11月25日付チャートの1位はミニ・ヴァニリの「ブレイム・イット・オン・ザ・ラン」、2位はバッド・イングリッシュの「ホエン・アイ・シー・ユー・スマイル」、そして3位はB-52sの「ラヴ・シャック」でした。上位3曲ともなじみのない曲で、今月わざわざ22位の曲を紹介するのもさもありなんといった感じです。このように、当時は全米チャートとはかけ離れた生活を送っていた状況の中、最終回の来月は全米1位の曲を紹介しますので、お楽しみに…
1989年12月9日付
第1位 We Didn't Start the Fire - Billy Joel
日経平均株価の史上最高値は、1989年大納会の朝につけた38,957円ですが、今回はその1989年12月のヒット曲を紹介します。この月のクリスマスには、私が初めて買ったクルマであるセリカが納車され、嬉しくてその夜にはセリカの中で眠ったのですが、寒くてすぐに部屋の布団に戻った思い出があります。その後、愛車はセリカ〜コロナ〜プリウスと3台しか乗り継いでおらず、1台のクルマに10年くらい乗るのは当たり前という感じのカーライフとなっています。さて、この80年代最後の月を振り返るということは、このコーナーも今回で最終回となるわけですが、記念すべき最後の曲は、このコーナーの最多掲載を誇るビリー・ジョエルの「ハートにファイア」を紹介します。
このコーナーを11年前に始めるにあたって、最後はビリー・ジョエルの曲で終われるめどが立っていましたので、途中で紹介すべき曲が見当たらない月もありましたが、なんとかひねり出してここまでやって来ました。そして「ハートにファイア」も戦後の歴史を歌詞にした曲ですので、30年前のことを振り返るこのコーナーに相応しい曲でもあります。ただし、この曲の中で80年代以降を取り上げた歌詞は、ドナルド・レーガン以降のほんの十数項目しかなく、その当時の現代はずいぶん端折られた印象です。それでも、この曲は現代史の学習に役立つということで、全米の小学校で歌われたとかそうでないとか。いずれにせよ、メロディではなく歌詞が受けて、全米1位まで上り詰めた曲です。というわけで、後日ビリー・ジョエルは「全米1位の曲は、こんな単純なメロディなんだぜ」とピアノの前で自虐的に語っていました。
では例によって当時のチャートを振り返ります。ビリー・ジョエルの「ハートにファイア」は、1989年12月9日付のビルボードHOT100で第1位となり、翌週の12月16日付チャートまで2週連続で1位を記録しています。この日のチャートの2位はフィル・コリンズの「アナザー・デイ・イン・パラダイス」、そして5位にはリンダ・ロンシュタットがアーロン・ネヴィルと歌った「ドント・ノウ・マッチ」がランクされており、久々に70年代から活躍を続けているアーティストが上位にランクインするチャートとなりました。
さて、何度も記しているように、このコーナーは今回で終了です。今後は80年代以前の洋楽のことについては、旅行記の中で思い出を語りながら織り込んで行けたらなぁと思っています。洋楽ファンの方は、どうぞそちらをお楽しみに…。それでは、長い期間にわたってお読みいただきありがとうございました。

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